1783年8月5日10時、鬼押出し溶岩に覆われた柳井沼から激しい爆発が起こった。その爆発音は京都まで届いた。爆発によってガラス質の砂礫が四方に放出された。これを鎌原熱雲と呼ぶ。爆発と同時に鬼押出し溶岩だけでなく柳井沼周辺の地表全体が不安定になり、一団の土石なだれとなって北に疾走した。通過域には、黒岩と流れ山が特徴的にみられる。
鎌原熱雲の堆積物
1783年8月5日10時ころ,山頂火口から北側へ流れ出していた鬼押出し溶岩の先端が減圧爆発して熱雲が発生した.爆発源のすぐそばには厚さ5mほどの砂礫層が残されている.この写真の下半分はシルトをほとんど含まない青黒色の砂礫だが,上半分はシルト粒子も含むので淡色である.炭化樹幹を含む.(長野原町営火山博物館の1992年基礎工事のときに出現した断面)
鎌原湖の黒岩と水田
もっとも絵になる黒岩。鎌原湖のそばにある。私が浅間山で黒岩という単語を使うとき、それは1783年8月5日10時に発生した鎌原土石なだれが流路の地表に置き去りにした巨大な黒い岩を指す。それは、地表から突出していて目立つし、なによりとても特徴的な形態をしている。さっきまで鬼押出し溶岩だったと私は考えている(地点31)。
P1020437s.jpgここの標高は1010メートルだが、水田がある。鎌原土石なだれの前は、ここを赤川が流れていたのだろうか。
東側に偏在する黒岩
 鬼押出し溶岩の先端にある泉ヶ丘から始まって、嬬恋の里、プリンスランドを通って、サンランドに至るライン上の地表に、大きな黒岩が多数みつかる。このラインは、鎌原土石なだれの中心線から有意に東側に寄っている。
P1020798s.jpg  これが、たぶんもっとも大きな黒岩だ。上に別荘一軒とテニスコート一面がつくられている。50メートルくらいある。全体を一枚の写真に収めるのはむずかしい。場所は、鬼押出し溶岩の先端。 ただし、1783年8月5日10時の先端ではない。いま先端にあるのは、たまたま。ここより南にあった大きな黒岩は、前進する鬼押出し溶岩に飲み込まれてしまった(地点47)。
P1020814s.jpgP1020804s.jpg表面がひび割れた黒岩(左端 地点45/中央 地点46)。
 この場所に移動してきたとき、どの黒岩もまだ柔らかかったことがよくわかる。大きな黒岩は、多かれ少なかれ、柔らかかった証拠をその外形全体と表面のひび割れと内部構造に残している。
 これほど大量の柔らかい安山岩を供給するメカニズムとして、山頂火口からの瞬間的放出は現実的でない。そんなことをしたら、マグマは溶岩ではなく、よく発泡してみずからを粉砕して軽石になってしまうだろう。
 2日前から鬼押出し溶岩として北山腹を下っていた高温岩体が供給源だったと考えれば、この困難は回避できる。
水冷された黒岩
別荘の門柱として利用されているこの黒岩の表面には多数の亀甲割れ目が走っている。典型的な水冷構造だ。鬼押出し溶岩が柳井沼の水と接触したために水蒸気爆発が起こって鎌原土石なだれが発生したとするモデルを私は提唱しているが、この水冷構造はそれを裏付ける証拠のひとつである。
鎌原土石なだれにも流れ山がある
P1020430s.jpg鎌原土石なだれの一大特徴は黒岩だが、土石なだれの普遍的特徴である流れ山も鎌原土石なだれの表面にしばしばみられる。これは火口から10.5キロはなれたサンランド四ツ角の流れ山だ。この付近には、黒岩も多数みられる。
鎌原土石なだれの西側には流れ山が多い
IMGP0983s.jpg鎌原土石なだれの西縁は、従来考えられていたよりかなり西側にある。浅間ハイランド別荘地、パルコール嬬恋ゴルフ場、寿の郷別荘地は、すべて鎌原土石なだれの上だ。そこには、多数の流れ山が点在する。しかし大きな黒岩はみつからない(地点41)。
鎌原土石なだれが東側に500メートル拡大
 鎌原土石なだれの東縁もずいぶん東側にあることがわかった。鎌原土石なだれの東縁は赤川にほぼ等しいと思っていたが、そこより500メートル東にあった。
 鎌原と北軽井沢を結ぶ道路沿いでは、読売バンガローまで達している。その敷地内に流れ山がある。一方、その南東の別荘地内は平坦で、追分火砕流の上に薄い吾妻火砕流だけがのっている。鎌原土石なだれはこの別荘地まで達していない。
P1020525s.jpg北側の別荘地。急な坂の上にあるこの別荘の背後に深い谷がある。
P1020521s.jpg平原火砕流台地に切り込まれた深さ40メートルほどの谷。この深い谷を赤川支流と呼ぶ。対岸は厚く堆積したクロボクを耕した牧草地になっているが、こちらは、その上に鎌原土石なだれの堆積物がのっている。崩壊地で観察すると、その厚さは12メートルほどだ。断面にはパッチワーク構造が確認できる。つまりこの別荘は鎌原土石なだれの東縁ぎりぎりに建っている。この別荘地内の地表に黒岩はほとんどみつからないが、流れ山はたくさんある。

ここから2キロ下流の赤川合流点でついに東側に乗り上げた鎌原土石なだれは、ブランニュー北軽井沢別荘地の西端をかすめて小宿川に流れ込んだ。小菅沢との合流点である小代(こよ)の段丘は鎌原土石なだれがつくったようにみえる。
P1020531s.jpgブランニュー北軽井沢にあるこの別荘は、鎌原土石なだれのまさに東縁上に建っている。南側から見ている。右側の低い平坦面は平原火砕流の表面(地点4)。
鎌原土石なだれの先端
 鎌原土石なだれの堆積物先端はどうなっているだろうか。
これは、サンランド別荘地の北端を南に向いて撮影した写真である。流れ山が点在する起伏のある地表は雑木林として放置されている(地点6)。
IMG_1522s.jpg同じ場所から北側を向いて撮影してみよう。こちらは平原火砕流がつくる平坦面だ。農地やテニスコートとして利用されている。人家の裏の小山は、平原火砕流に埋め残された塚原土石なだれの流れ山だ。したがって、この撮影地点が鎌原土石なだれが及んだまさに先端だと判断できる。写真にうつっている人家は鎌原土石なだれに被災しなかったはずだ。
IMG_1525s.jpg サンランドの管理事務所前の黒岩(地点7)。
鎌原土石なだれの観察適地
鎌原観音堂の2キロ南の上ノ原では、鎌原土石なだれが残した地層と地形の特徴をほとんどすべて見ることができる。
流れ山。山頂に標高点がある。国土地理院2万5000分の1地形図上の1018メートル点だろう(地点33)。
P1020674s.jpgこの写真には、たくさんの地質要素が写っている。平原火砕流の上に嬬恋軽石がのっている。ロームやクロボクを挟むことなく、その上に鎌原土石なだれが直接のっている。土石なだれの頭部が浸食して通過したあと、胴部および尾部が堆積物をここに残したと解釈できる。地表には、黒岩と流れ山がみえる(地点34)。
P1020706s.jpg高羽根沢のそばまで移動すると、ロームとクロボクの上にのった鎌原土石なだれを見ることができる。土石なだれが残した堆積物の特徴であるパッチワークが確認できる(地点36)。
 
 1783年8月から現在までに地表に堆積したレスはほんのわずかしかない。10センチにも満たない。この事実が、この地形が新しくつくられたことを証明している。そして、そのような候補は、浅間山には、鎌原土石なだれしかない。
IMGP0993s.jpg細原開拓の南東一角の地表を鎌原土石なだれが薄く覆っている。土石なだれに特徴的なパッチワークが断面に確認できる。しかし鎌原土石なだれが、間にクロボクを挟まずに、ロームの上に直接のっているのが不思議だ。地表を浸食したあとで堆積したのだろうか。ロームの下に嬬恋軽石がある。

ここを流れた鎌原土石なだれは、700メートル先のグランナチュールまで到達したあと、高羽根沢に流れ込んだ。
赤川土取場跡
ここでも、1783年8月5日の鎌原土石なだれが残した堆積物の断面を観察することができる。崩壊地にもとからあったさまざまな地層が、色や粒子の違いでパッチワークをなしている。その下には嬬恋軽石(YPk)と平原火砕流が露出している(地点23)。
鎌原観音堂はギリギリだった
 鎌原土石なだれは、従来から知られている小熊沢だけでなく高羽根沢と小宿川も下って吾妻川に出た。鎌原土石なだれは吾妻川に流入する2キロ手前から、山麓全体を覆って流れることをやめた。下松原開拓、向原などの台地を避けた。それらはキプカとして残った。
 92人が駆け上って助かったとされる鎌原観音堂は下松原開拓の台地の一部である。ここが土石なだれに飲み込まれなかったのは偶然だったと言ってよい。観音堂が土石なだれの災厄から完全に逃れられる安全な場所だったとは言えない。観音堂に駆け上がれば命が助かると彼らが思ったとしても、結果がたまたまよかっただけである。もう少し流れの勢いが強ければ、観音堂も飲み込まれるところだった。
 向原と鎌原が同じ平原火砕流からなる台地なのに、後者が襲われて前者が襲われなかったのは、台地の高さの違いによる。鎌原は向原より30メートルほど低い。1万5800年前の平原火砕流噴火の直後に、吾妻川そばの火砕流堆積物から二次爆発が頻繁に起こった。鎌原の火砕流堆積物の表層はそのとき大きく浸食されて低くなった。200年前に起こった鎌原村の悲劇は1万5800年前のつけがもたらしたものだったのである。
鎌原土石なだれがつくった三つのキプカ
 鎌原土石なだれは、観音堂、向原、アテロの三ヵ所でキプカをつくった。キプカはハワイの言葉で、溶岩に埋め残された土地のことをいう。しばしば自然豊かな森に覆われていて、人々に安らぎを与える。ユーカリの大木が生い茂るナマカニパイオ・キャンプ場は、キラウエア・カルデラの縁に残されたキプカだ。
 浅間山に話を戻そう。観音堂キプカは、石段を駆け上がった数十人が助かったことで有名だ。向原キプカの境界は別荘地と集落の間にあり、その境界地形をいまでも明瞭に観察することができる。アテロキプカは、鎌原土石なだれの表面に成立した林の中を抜けて、谷をいったん降りて登ると、目の前に大きな流れ山と広いクロボク畑がつくる雄大な景観が突然現れることによって認識できる。
 これら三つのキプカは1783年災害を免れた土地だが、これらの土地が、隣接する土地と比べて実際どれほど安全性なのか、私にはよくわかない。調べれば調べるほど、鎌原土石なだれは稀な、住民の側からするとまったく不運な火山災害だったように思われる。この災害の再来を心配するのは愚かしいことのようにも思われる。
 鎌原村を土石なだれが襲ったのは、1万5800年前に平原火砕流がその土地をつくってから初めての出来事だった。これほど稀な現象だったにもかかわらず、村人は階段を駆け上がろうと観音堂に向かった。彼らは何を得ようとしたのだろうか。高いところを目指せば生き延びられると思ったのだろうか、それともただ観音様のおそばに寄ろうとしただけだったのか。  
大きな柳井沼と地下水システムが鎌原土石なだれの原因か  
柳井沼の基本地形は、1万5800年前の平原火砕流噴火の直後にできていた。そして、その大きさはいまの北に開いた馬蹄形凹地とほぼ同じくらい大きかったのではないか。
 平安時代の1108年8月、追分火砕流がその大きな柳井沼の中に流れ込んだ。この噴火のあと、表面地形としての沼はずっと小さくなったが、浅間山からあふれ出す大量の水は、地下水として元の地表すなわち追分火砕流の堆積物基底をとうとうと流れ続けた。
 江戸時代1783年までの675年間、この地下水システムはかろうじて安定を保っていたが、8月5日10時に鬼押出し溶岩の先端で起こった爆発をきっかけに、地下水面より上にあった追分火砕流の堆積物全体がそっくり北側にすべり落ちてしまった。これが、鎌原村を襲った土石なだれになった。つまり、鎌原土石なだれになった土塊の過半は、675年間準安定状態にあった追分火砕流の堆積物だった。
 上記の推論(モデル)は、これまで野外で獲得された地質学的事実のどれとも矛盾しないし、いくつかの重要な特徴を説明する。
 鎌原土石なだれが残した堆積物の断面には、クロボクやロームがパッチとしてたくさんみつかる。ロームはもちろんクロボクも、追分火砕流の下にあった地層だ。追分火砕流の上のクロボクは、まだ薄く10センチに達しないから、これに該当しない。北へ動き出した土塊が追分火砕流と平原火砕流の境界層(クロボク/ローム)を含んでいたことは間違いない。この境界層そのものがすべり面になったとみるのがもっともらしい。
 鎌原土石なだれは「乾いていた」と強調されることがある。堆積物の断面にパッチワーク構造が認められるから確かにそうなのだが、とくに東側の地層断面で、じゃぶじゃぶの水とともに流れた痕跡も認められる。100度で沸騰した泥水の中に生じた小さなパイプ構造がしばしばみつかるのだ。鎌原土石なだれは、場所によってその流れの様式が大きく違っていた。それは、土塊の部分によって含水率が大きく違っていたことに起因すると考えるとうまく説明できる。  
流れ山と黒岩は別荘地に最適
 鎌原土石なだれが通過した地表には流れ山や黒岩があって、平坦ではない。集落や耕作地にするには不適当だ。
IMGP1024s.jpg流れ山や黒岩をうまく利用してプライバシーを守り、居心地のよさそうな別荘がたくさんつくられている。
青山の浅間石
中之条盆地の東端にある「青山の浅間石」。国道脇のセキチューの裏にある人家に接する田んぼの一角を占めている。
前橋市の鎌原堆積物
前橋市川原町の住宅街に露出する1783年に浅間山から流れてきた泥の堆積物。鎌原土石なだれが流下の過程で流れの性質を少しずつ変化させて、熱泥流とでも言うべき流れになって関東平野の一角である前橋市に達した。ここに達したのは、8月5日の正午ごろだった。当時、このあたりは一面の桑畑であって、「田畑に泥入り」と書いてあるだけで、死傷者や家屋被害の記録はない。
 
 
 
 
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。