表 噴火のときに空から降った軽石や火山灰
記号 噴火年月日 M 特徴
A 1783年8月4日 4.5 白色の軽石
BU 1108年9月26日 4.5 黒と白の縞模様が顕著な軽石
BL 1108年8月29日 4.8 黒い軽石(スコリア)
C 3世紀末 4.4 淡黄色の軽石
D 5900年前 3.1 淡黄色の軽石
E 6730年前 3.7 ウグイス色の火山灰を挟むスコリア
YAU 1万5800年前 6.0 カラフルな火山灰が縞模様をなす
YPK(嬬恋) 1万5800年前 5.6 黄色の軽石。斜長石をたくさん含む
YAL 1万5800年前 5.4 カラフルな火山灰が縞模様をなす
YP 1万5800年前 5.3 黄色の軽石。斜長石をたくさん含む
SP(白糸) 2万0800年前 5.3 黄色の軽石。角閃石を含む
Mは噴火マグニチュード。噴出重量の対数であり、M5が10億トン。
 
 
鎌原
吾妻
鬼押出し
追分
平原
塚原

軽石や火山灰それぞれについて、1mの等厚線を示している。軽石や火山灰の厚さは火口から遠ざかるにつれて規則的に薄くなるが、噴火のときの風向きに支配されて、等厚線は火口から特定方向に長く伸びる。円に近い等厚線は、その噴火が長期間継続して東西南北の風が吹いたことを意味する。
1783年(天明三年)の噴火
 赤色〜黄色系統で表現した鬼押出し溶岩(Alf)、吾妻火砕流(Aig)、鎌原土石なだれ(Ada)、鎌原熱雲(Abt)、そして釜山スコリア丘(Acn)からなる。
 鬼押出し溶岩と吾妻火砕流は山頂火口から流出した。この二つの流れが火口の南側(長野県側)には流れ下らないで北側(群馬県側)にだけ流れ下ったのは、当時の山頂火口の縁が傾いていたからである。二つの流れは、もっとも低い北側の縁からあふれ出した。
 吾妻火砕流は、先行して斜面を流下していた鬼押出し溶岩の高まりに行く手を妨げられて、東西に分断して山腹を流れ下った。火山博物館に併設されたスキー場とその上部斜面には吾妻火砕流が分布しない。その上にある鬼押出し溶岩がつくる標高1730mの高まりの上には吾妻火砕流が乗っている。また、山頂に近い標高2400m付近の鬼押出し溶岩の上にも吾妻火砕流が乗っている。
 六里ヶ原の西部を占める上下二枚の舞台溶岩や、鬼押出しの西側にわずかに露出する前掛山の溶岩は、実際には吾妻火砕流にすっかり覆われたが、地質図では急崖部分だけを溶岩の色で塗って表現してある。吾妻火砕流は火口縁から北北東へ8.4km流れ下った。
 鎌原土石なだれは、山頂ではなく鬼押出し溶岩の先端から発生した。柳井沼という湿地を鬼押出し溶岩が覆ったことによって激しい水蒸気爆発が起こり、鎌原熱雲が発生した。火山博物館付近に1m以上の厚さで堆積しているガラス光沢をもつ青黒色の砂礫がその堆積物である。
 この爆発と同時に、北山腹の地表を占めていた大量の土砂が動き出していっせいに北へ流れ下った。爆発源には、北に開いたU字型の凹地が生じた。高速で移動した土砂は三原まで11kmの距離を直線的に進んだ。そこからは吾妻川に沿って向きを東に変えた。吾妻川までの流路になった地表には、小さな流れ山がたくさん残っている。地質図には流れ山のうち特別大きなものだけを濃色で表現してある。鎌原観音堂・向原・アテロの三ヵ所に、この土石なだれの通過から免れた領域であるキプカが認められる。爆発に巻き込まれた鬼押出し溶岩は、特徴的な形態をなす黒岩に転化した。鎌原土石なだれの流路には多数の黒岩が残されているが、地質図には大きくて顕著なものだけを示してある。発生源から4kmまでの区間にはとくに高密度に分布するが、そのほとんどは図示してない。
 このあと鬼押出し溶岩はU字型の凹地を埋め隠そうとするかのようにしばらく前進を続けたが、それを果たすことなく山頂火口縁から北へ5.6kmまで流れ進んで停止した。
1108年の噴火
 黄緑色で表現した追分火砕流(Big)が、山頂火口から四方に広がった。しかし西側は黒斑山が、東側は仏岩の山体が障壁になり、山麓まで火砕流が達したのは北と南の二方向だけだった。北方向のうち西寄りの流れは集中し、大笹で吾妻川の深い谷の中に流れ込んで広い段丘をつくった。いっぽう東寄りの流れは北軽井沢で流れ広がって、小宿川・地蔵川・熊川に少しずつ流入した。最も遠くまで達した地点は、火口縁から12kmの距離にある。
 吾妻火砕流の東端は浅間牧場の西縁を流れる片蓋川に一致するが、追分火砕流は片蓋川を200mほど越えて浅間牧場の山塊に乗り上げている。追分火砕流の西端は東泉沢にほぼ一致する。ただし一部で西側に50mほどはみ出している。
 北軽井沢付近の追分火砕流は、4週間後に降下したBスコリア上部に覆われている。その厚さは押切端で1mである。
1万5800年前の噴火
 ピンク色で表現した平原火砕流(Hig)が火山中心から四方八方に流れ広がり、堆積物が谷を埋めて広い平坦面をつくった。火砕流は黒斑山や仏岩の山体の上も通過して、薄い堆積物をそこに残した。急崖では失われたが、平坦面には堆積物がいまでも残っている。地質図では、仏岩溶岩の上や浅間牧場の塚原土石なだれの上に平原火砕流を表現してないが、実際にはすべて平原火砕流に覆われた。
 大笹から三原までの吾妻川南岸と大屋原に、火砕流の厚い堆積物が認められる。吾妻川を渡った火砕流は、草津白根山の領域に1kmほど侵入した。吾妻川の水と高温の火砕流堆積物が接触して二次爆発が繰り返し起こり、袋倉にサージ堆積物が厚く積み重なった。しかし地質図ではこの二次サージ堆積物を区別しないで、同じようにピンク色で塗ってある。応桑は、熊川と赤川に沿って下った火砕流に飲み込まれることなくキプカとして残った。東泉沢より西側の姥ヶ原の表層には、火砕流が高速で通過したあとに残した堆積物が薄く広く分布している。
 浅間山の北麓一帯は、平原火砕流の直後に火山中心から噴出したカラフル火山灰と嬬恋軽石に厚く覆われている。カラフル火山灰の厚さは応桑で1m、嬬恋軽石の厚さは大津で1mである。
 鎌原の集落は、平原火砕流台地より20mほど低い段丘面の上にある。この凹地形が1783年の噴火で災いとなったわけだが、嬬恋軽石がこの段丘面を両側の平原火砕流台地と同じように覆っていることから、段丘の形成は平原火砕流噴火直後だったことがわかる。
2万4300年前の山体崩壊
 黒斑山が突然崩壊して、塚原土石なだれ(Kda)が発生した。土石なだれは初め東に進んだが、まもなく第三紀の地層がつくる山地に行く手を阻まれて、南と北の二手に分かれた。この土石なだれが残した地層を地質図では青色で表現してある。北麓では堆積面が応桑に残っていて、大きな流れ山がたくさんみられる。流れ山は濃色で表現してある。
 平原火砕流の平坦面内にみつかる不自然な凸地形は、下位の塚原土石なだれの流れ山だと判断して着色した。向原や大屋原などにそれがある。ただし細原開拓と下松原開拓にみられる凸地形は、23万年前に烏帽子火山から発生した別の土石なだれがつくった流れ山である。2万4300年前よりずっと古い地層に厚く覆われている。
 山体崩壊のあとただちにプリニー式噴火が発生したことを、BP軽石群のひとつであるBP2軽石が土石なだれの上を直接覆うことから知ることができる。この層序は、浅間大滝駐車場の壁面で観察することができる。大量のマグマが地下から山体を押し上げて変形させたことが大規模な崩壊につながったのであろう。
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。