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塚原土石なだれの流れ山を、浅間山と一緒に写真に収めよう。道を挟んで東にある別の流れ山は頂上まで登ることができる。
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塚原土石なだれが残した双子の流れ山。2万4300年間にゆっくり堆積した1.5mのロームと1mのクロボク、1万5800年前の1-2日で降り積もった1.5mの嬬恋軽石、合わせて4mの地層に厚く覆われているから、なだらかな地形表面をなす。
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二つの流れ山の間に家が建っている。冬の強い季節風を避けることができる好条件に恵まれた場所だ。畑の表面がややうねっているのは、2万4300年前から数千年間続いた氷期の凍結融解作用による。
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別荘が建つ比高1.5mほどの丸みを帯びた崖が、まさに鎌原土石なだれの東端である。撮影地点は平原火砕流の堆積面。
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吾妻川の谷地形を埋めた平原火砕流の堆積物は高温状態を何年も保って、二次爆発を繰り返した。波状堆積や斜交層理が特徴的な軽石質サージ堆積物がここから袋倉までの区間に厚く残っている。
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鎌原土石なだれの先端がはっきりとわかる。南からやってきた土石なだれは、ここでついに平原火砕流台地の表面を進むことができなくなり、両側の谷に流れ込んだ。鎌原土石なだれの流れ山が点在する起伏のある地表は、雑木林のまま別荘地として使われている。一方、すぐ北側に広がる平原火砕流の平坦面は農地やテニスコートとして利用されている。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。長径30m。
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万座鹿沢口駅裏の高い崖は、平原火砕流の台地を吾妻川が浸食してつくった。1783年8月5日、鎌原土石なだれがここを滝のように下った。
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鎌原観音堂の北に広がる平原火砕流台地の上に、鎌原土石なだれが黒岩を置き去りにした。
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天明三年(1783年)噴火後、村内に残って道標として再利用された延命寺門柱のかけら。「左 ぬま田、右 すがを」と読める。裏面に「別」の字の旁「リ」が刻まれている。門柱本体は吾妻川河床で発見されて、鎌原観音堂境内に戻された。そこに、「リ」を失った「別」の字が残る。
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鎌原観音堂の石段は、天明三年の土石なだれで3分の2が埋まった。1979年の発掘調査で最下段から女性二人の遺体がみつかった。
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ロームの間に、直径2mmの白色軽石からなる御岳第一軽石が挟まれている。9万9000年前に木曽の御岳山から飛来した。左下の青灰色の岩体は、23万年前の土石なだれが残した流れ山。
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高羽根沢に、砂とシルトの互層からなる湖底堆積物が露出する。湖は25〜20万年前に存在した。白砂川が合流する地点付近で吾妻川が堰き止められてできた。湖面の高さは900m付近にあったようだ。
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平原火砕流台地を吾妻川が削り取ってつくった高い崖が、対岸に連続する。
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追分火砕流は、ここで平原火砕流台地の上を流れ広がった。平原火砕流の上にはクロボクが厚く堆積しているから、畑の土は真っ黒になる。しかしここでは、平安時代に追分火砕流がその上を覆ったから、畑の土は青黒色だ。奇妙なことに、追分火砕流はここでは地形をつくっていない。
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塚原土石なだれの厚い堆積物の中に大きな溶岩のかけらが含まれていた。その周囲にあったやわらかい地層は採石されたが、この溶岩はそのまま残された。これは、人工的な流れ山地形である。溶岩には移動中に生じたと思われるひび割れが多数認められる。
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地蔵川を下った追分火砕流の先端。高さ6mほどの崖をなす。
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平原火砕流台地を切り込んだ谷を追分火砕流が埋めた。流れ現象が残した地形面は、かならず古いものほど高く、新しいものほど低い。
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地蔵川にかかる甘楽の橋から、箱型峡谷を観察することができる。平原火砕流の谷に流れ込んだ追分火砕流の堆積物を地蔵川が削り取ってつくった。同様の地形は、胡桃沢川の1064m地点、二度上峠に向かう道が片蓋川を渡る地点でも見ることができる。
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嬬恋軽石の上を覆うカラフル火山灰。ガリー(雨裂)の断面がいくつも見える。ただしこの露頭は、河川改修によって、すでに失われた。
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小宿川の谷中に流れ込んだ追分火砕流が、水流で浸食されて断面を露出している。
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平原火砕流による埋め立てをかろうじて免れた塚原土石なだれの流れ山。浅間山の展望がよい。
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火山麓をつくる地層の断面を観察するのに適した地点のひとつ。ここには、鎌原土石なだれ(1783年)と嬬恋軽石(1万5800年前)がとくによく露出している。両者の間にはクロボクとロームが挟まれている。これらは、浅間山が噴火しなかったときに毎年少しずつ堆積した地層である。
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赤川支流に流れ込んだ吾妻火砕流の先端。追分火砕流の上に重なる。追分火砕流の中には、キャベツのようなかたちをしたスコリアがたくさん含まれている。高温ガスによってところどころ赤や黄に着色されている。
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吾妻火砕流の直下に、赤色火山灰と白色軽石がある。白色軽石は、仙台・盛岡まで達した1783年7月28日のもの。厚さ7cmのクロボクを挟んで追分火砕流の上部が見えている。吾妻火砕流の厚さは1m足らずで、溶結していない。
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どこまでも平坦に続く平原火砕流の堆積面。過去1万年間に堆積した厚さ1mのクロボクのため畑の土は真っ黒。
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厚さ1mと薄いにもかかわらず、固く溶結した吾妻火砕流の堆積物が濁沢の壁面に露出する。吾妻火砕流は、紀州鉄道軽井沢ホテルの手前で停止した。ホテルの敷地は平坦だから追分火砕流の表面だとみられる。ホテルの山側にある別荘地は起伏に富んでいて、吾妻火砕流の特徴をなす。
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噴煙を吐く浅間山がここから見渡せる。手前に、追分火砕流のなだらかな堆積面が広がる。
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赤くて丸いパン皮岩塊は吾妻火砕流の特徴だ。しかしこの付近には顕著な末端崖がないから、追分火砕流との境界を見分けるのがむずかしい。
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2004年9月1日爆発で、火口から5.5km地点に降った火山礫。落下時の破壊力は小さくなかっただろう。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。水田地帯の道路脇に姿のよい形を見せている。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。
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鎌原土石なだれが残した流れ山。
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嬬恋軽石の上に鎌原土石なだれの堆積物が直接重なっている。ロームとクロボクは完全に削り取られてしまった。土石なだれの先端が浸食能力をもっていたことがわかる。
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鹿児島湾から2万8000年前に飛来した姶良丹沢火山灰がロームの中にみつかる。塚原土石なだれの薄層も挟まれている。
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鎌原土石なだれの断面に、異なる色や岩種からなる不規則なかたちをした土塊が隣り合うパッチワーク構造がみえる。
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  • 大きな崖の下半分に、パッチワーク構造をもつ土石なだれの堆積物があるが、これは塚原土石なだれではなく、下松原開拓に露出する23万年前の土石なだれと同じものである。嬬恋軽石との間に10mのローム層を挟む。金毘羅山は、その周囲の平原火砕流面より20mほど高いから、これも23万年前の土石なだれが残した地形、あるいはさらに古い基盤がつくる地形だろう。
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平原火砕流に埋め残された23万年前の土石なだれの流れ山。
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小屋ヶ沢を下った追分火砕流が小さな段丘をつくっている。
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大笹の集落は、追分火砕流が吾妻川を厚く埋め立てた上に形成されている。住宅の庭の土を掘ると、クロボクがほとんどなく、追分火砕流がいきなり現れる。
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鎌原土石なだれの西縁は、従来考えられていたよりかなり西側にあった。浅間ハイランド別荘地、パルコール嬬恋ゴルフ場、寿の郷別荘地は、すべて鎌原土石なだれの上にある。そこには多数の流れ山が点在する。しかし大きな黒岩はみつからない。
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わずか900年前に流出した追分火砕流の堆積面に、キャベツ畑が大規模に造成されている。遠景は四阿山。
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追分火砕流は、一部で東泉沢を越えて西へあふれ出した。青黒色の特徴的な岩塊のほかに炭化木が多数含まれている。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。別荘地内の道路は、この岩を囲んでロータリー形式をとる。長径30m。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。巨大なパン皮火山弾のようだ。ただし、割れ目に方向性がある。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。この場所に定着したあとも高温だったため重力を感じてつぶれている。平滑な表皮が急冷されたことを示す。そのあと内部が発泡して表面積が足りなくなり破れた。
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鎌原土石なだれが置き去りにした黒岩。おそらくこれが最大で、長さ50mある。別荘1軒とテニスコート1面がこの上につくられている。
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ガラス光沢と球形から判断して、これは20世紀のブルカノ式爆発で山頂火口から放出された火山弾だ。5.5km飛行した。
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地表下50cmを吾妻火砕流がつくり、クロボク20cmを挟んで追分火砕流が露出する。クロボクの中ほどに厚さ3cmのA'軽石がある。

以前ここに書いたD火砕流は追分火砕流を誤認したものだった。沢の西壁にE軽石や嬬恋軽石が露出することから、この沢が追分火砕流の西端であると考えるのがよい。D噴火に火砕流は確認されない。2008年6月11日。
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ウグイス色の火山灰を挟むEスコリアが露出する。基底に朱色の粘土を敷く。
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国指定の特別天然記念物である溶岩樹型は、じつは溶岩ではなく1783年8月4日の吾妻火砕流がつくった樹型である。
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鬼押出し橋の東詰の崖は吾妻火砕流がつくっている。基底を掘ると、薄い白色軽石(1783年7月28日噴出)を敷いて、クロボクが露出する。クロボクの下には追分火砕流がある。
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1783年8月5日10時に生じた馬蹄形凹地を鬼押出し溶岩が埋めようとしたが果たせなかった。埋め残した谷にこの鬼押出し橋は架かっている。
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鬼押出し溶岩の表面に浮かぶスコリアラフト。釜山スコリア丘の一部が、火口からあふれ出す溶岩にさらわれたあと、表面に浮いてここまで流れて来た。鬼押出し溶岩が軽石噴火と同時に流れ出していた証拠である。
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平滑な破断面に囲まれたブロック溶岩が地表に露出している。安山岩溶岩の典型的な表面形態である。

じつは、この写真は地点55で撮影したものではない。上の舞台溶岩を覆う鬼押出し溶岩の写真である。
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1783年8月5日10時の爆発で発生した熱雲の堆積物がスキー場の縁に露出する。ガラス光沢をもつ火山礫からなる。基底に白色軽石があるが、吾妻火砕流は認められない。流下中の鬼押出し溶岩が障壁になって、吾妻火砕流はこの地点に達しなかった。
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クロボクに挟まれたEスコリア。ロームの下に厚い嬬恋軽石がある。
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2004年9月のブルカノ式爆発で飛来した火山弾が、登山道を直撃してクレーターをつくった。火口中心から2.35km。
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登山道脇で嬬恋軽石を観察できる。マグマが急冷してできた軽石のほかに、火道壁をつくっていた岩片も少量まじっている。
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前掛山中腹に露出する追分火砕流の堆積物断面を、ここから遠望して観察できる。
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黒斑山の緩斜面の上に嬬恋軽石が厚く堆積している。地元の人はここをシラハゲと呼ぶ。
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2004年9月1日のブルカノ式爆発で生じた衝突クレーター。直径6m。はずんで北西壁で止まっている直径0.8mの火山弾がつくった。この火山弾の破片が山火事を起こした。
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2004年9月1日のブルカノ式爆発で高山性矮低木群落が焼けた。ガンコウラン、ミネズオウ、クロマメノキからなる。焼けた場所は、いったん真っ黒になったが、翌春にはふつうの枯れ草の色に変わり、秋には緑もみえた。2年後にはすっかり緑になって、ガンコウランもクロマメノキもたくさんの実をつけた。浅間山の緑の回復力はめざましい。
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ここから前掛山の北西側をみると、次の観察をすることができる(双眼鏡を使うとよい):釜山の一部は、前掛火口からはみ出して、北側斜面の上に乗っている。その部分の下半は、スコリア丘がいつもそうであるように高温酸化して赤くなっている。スコリア丘を破って、鬼押出し溶岩が釜山火口から北側にあふれ出した。その際に、スコリア丘がこわされて大小のブロックとなり、溶岩流の表面に浮かんで下方に運び去られた。鬼押出し溶岩の表面に見られる赤みを帯びたスコリアラフト(いかだ)はこうして生じた。
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2004年9月23日のブルカノ式爆発で火口中心から450m地点に着地した火山弾(百トン岩)。9月16日から17日にかけて釜山火口内を埋めた新しい溶岩の破片である。
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2004年11月14日ブルカノ式爆発で飛散した火山礫。雨のあと舗装道路上から採取した。ほとんど発泡していない安山岩片からなる。最大径5cm。
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東京大学浅間火山観測所の敷地内で1783年軽石と1108年スコリアの断面を観察することができる。両者の間には厚さ20cmほどの砂まじりクロボクが認められる。
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追分火砕流の下に8cmのクロボクを挟んで別の火砕流がある。この層位から、この火砕流がC噴火の産物であると考える。
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追分火砕流が残した堆積物を観察するのに適した地点である。地蔵川に沿った砂利道を移動しながら観察すると、堆積物のみかけが徐々に変化していくのがわかる。
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塚原土石なだれが残した流れ山の断面を採石場で観察できる。岩石がひび割れているため扱いやすいのか、土石なだれの堆積物はしばしば採石されている。
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。