同じく『天明信上変異記』に次の記述がある。
 「慶長元年四月四日(1596。5。1)より八日迄山鳴大焼、八日午刻大石降、七月八日大焼、石近邊へ降、人死」
 この年は、『武江年表』に「六月十二日、京都・畿内・関東諸国大ニ土降ル、マタ毛ヲ降ラス」とあり、『当代記』に「前ノ七月ノ如、浅間焼上、西ノ方ヘ焔コロフ、此故カ近江・京・伏見、其比灰細々降、其故ニヤ秋モ少々凶と云々、信濃ナトハ此灰一寸計ウマル、関東ハ不降、但是モ同秋凶云々」とある。この他、『続史愚抄』『アジアの記録』などにも降灰降毛の記事が認められる(武者、1941;村山、1989など)。これらの史料の多くは18世紀に書かれたものだが、国立公文書館に保存されている『当代記』写本4種類のうちひとつは江戸時代前期に書かれたものだと田良島哲は言う。
 小山(1996)は、『義演准后日記』『舜旧記』『孝亮宿【示すへんに禰のつくり】日次記』などの同時代史料に1596年の畿内降灰の記述があることを指摘した。したがって、少なくとも畿内に降灰・降毛があったことは事実だとみてよい。1596年の畿内降灰・降毛事件の給源を浅間山とする村山(1989)の解釈には議論の余地があり、白山・九州の火山・大陸の火山などが給源である可能性を検討するべきだと、小山(1996)は述べた。しかしその検討はまだ結論をみていない。ここでは『当代記』の記述を信用して、浅間山が給源火山だったと考えることにする。史料がいう季節は夏である。夏期における日本上空の風向きを考えると、浅間山の噴火によって京都に降灰・降毛があったと考えてもおかしくない。ただし『天明信上変異記』の「七月八日大焼、石近邊へ降、人死」という記述は、天明三年噴火のクライマックスとまったく同じ月日なので、創作の疑いがある。
 浅間山の北東麓で、Bスコリア(1108年)とA軽石(1783年)の間にみつかるA' 軽石がこのときの噴火堆積物だろう(早川、1995)。
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。