Bスコリアの噴火は、『古史伝』などの記述を根拠として、1281年に起こったと考えられたことがあった(たとえば荒牧、1968)。しかし新井(1979)は、『中右記』の記述と噴火堆積物の放射性炭素年代を理由に、Bスコリアの噴火は1108年に起こったと考えた。
  Bスコリアは、浅間山の東50kmの前橋市で15cmの厚さをもつ。火山近傍では、層間に追分火砕流堆積物を挟んでいる。追分火砕流は山頂火口から南北両方向に流下し、御代田町豊昇・嬬恋村大笹・長野原町北軽井沢に達した。多数の死者があっただろうが、火砕流による被害状況は記録に書かれていない。この噴火のマグニチュードは5.1で、過去1万年間に浅間山で起こった噴火の中で最大である。
『中右記』と『殿暦』の記述
  『中右記』の天仁元年の条に、次のようにある:
天仁元年八月二十日(1108.9.28)「近曽天下頻鳴動、若依何祟所致哉」
   同年八月二十五日(1108.10.3)「寅卯時許、東方天色甚赤」
   同年九月三日(1108.10.11)「天晴、早旦東方天甚赤、此七八日許如此、誠為奇、可尋知【興欠】
   同年九月五日(1108.10.13)「近日上野國司進解状云、国中有高山、稱麻間峯、而從治暦間(1065-1069)峯中細煙出來。其後微々成、從   今年七月二十一日(1108.8.29)猛火燒山峯、其煙屬天沙礫滿國、【火畏】燼積庭、國内田畠依之已以滅亡、一國之災未有如此事、依希有之怪所記置也。」
   同年九月二十三日(1108.10.31)「今日午時許有軒廊御卜、上卿源大納言、俊、上野國言上麻間山峯事」
 『中右記』(ちゅうゆうき)は権中納言藤原宗忠の日記である。京都で書かれた。嘉承三年八月三日(ユリウス暦1108年9月9日)に改元して天仁元年になったのだから、この噴火の報告が京都に上がったのは天仁元年九月五日だが、この噴火が始まった七月二十一日はまだ嘉承年間だった。
 上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに1か月半もかかったという事実は、当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる。上野の国がいちじるしく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか。
 浅間山の噴火を記述した部分を口語訳してみよう。1108年8月29日、前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった。そのため上野国の田畑の多くが使用不能になった。これ以前の浅間山は、治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが、その後、かすかになっていた。9月28日に、京都で何度も鳴動があった。そして10月3日から11日まで、東方の空が甚だしく赤かった。
 『中右記』と同じく京都で書かれた摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』の嘉承三年八月条にも次の記述がみつかる。
「十八日(1108.9.26)、乙未、天晴、丑剋許東北方有大鳴、其聲如大鼓、夘時従院左衛門尉頼、来云、御使、此鳴如何、余申奇由了、午剋許聲又同」
「廿日(1108.9.28)、丁酉、天晴、(中略)天下鳴事有御卜」
 八月廿日の鳴動だけでなく、その二日前、十八日未明にも、北東の方角から太鼓のような大きな音が聞こえたという。白河院が「この音は何か」と忠実に問い合わせたほどだった。『神皇正統録』に「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25)、虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ。数日断マス」とあるのは、日付の切り替わりを当時の常識的な寅の刻で考えて、丑はまだ前日だから十七日としたのだろう。
 九月二十三日に行われた軒廊御卜 (こんろうのみうら)は、宮中の渡り廊下で行われた占いのことである。彗星の出現や自然災害が国家に吉であるか凶であるかを判定して、もし凶とでた場合には改元などでそれを予防した。浅間山のこの噴火の場合は、改元には至らなかったが軒廊御卜の対象となった。辺境で起こった噴火であるにもかかわらず当時の中央政府にこのように注目された事実は、その規模が大きかったことを示している。
史料記述と堆積物調査から組み立てた噴火経緯
 『中右記』と『殿暦』の記述を堆積物の調査結果と照合すると、噴火経緯を次のように組み立てることができる。8月29日、Bスコリア下部の噴火が起こった。これは1日ほどで終わった。追分火砕流からのサーマル火山灰はBスコリア下部を整合に覆い、Bスコリア上部に浸食不整合で覆われているから、この噴火の最後の段階で追分火砕流が山頂火口から南北2方向に流れ下ったと考えられる。それは、おそらく8月30日だったろう。噴火はいったん収まったが、4週間後の9月26日未明からBスコリア上部の噴火が始まった。これは数日継続した。Bスコリア上部の分布軸は北東に伸びていて、東南東に伸びるBスコリア下部と方向が違う(中村・荒牧、1966;宮原、1991)。4週間の時間差は、この風向きの違いをうまく説明する。上野国の田畑の多くは浅間山の南東に当たるから、初めの噴火で使用不能になった。
 上の舞台溶岩の流出時期を書いた史料はない。現地を調査すると、上の舞台溶岩はBスコリア上部に覆われていることが確認できる。スコリア粒子が熱変質をまったく受けていないので、上の舞台溶岩はBスコリア上部の噴火時にはすっかり冷えていたと考えられる。厚さ40メートルの溶岩がわずか1ヵ月で冷え切ってしまうとは考えにくいので、上の舞台溶岩は1108年より前の噴火の産物である可能がつよい。
1108年   浅間山の噴火   史料記述

8月29日   Bスコリア下部   前橋に灰が積もった。田畑が荒廃した。
8月30日   追分火砕流   (なし)
    (4週間の静穏)    
9月26日から   Bスコリア上部   京都で繰り返し鳴動。東の空が赤い。
2週間ほど        

 この地域で通常7月下旬に行われる「土用干し」のあとの状態の水田を、群馬町同道遺跡でBスコリアが覆っている事実は、それが1108年8月29日に降灰したと考えることと矛盾しない(能登、1988)。一方『古史伝』が言う1281年6月26日は、覆われた水田の状態が示す降灰の季節と矛盾する。
峰の茶屋のBスコリア
IMGP0557s.jpg峰の茶屋にある東大火山観測所の敷地内に露出する1108年スコリア。下部にあるピンク色が追分火砕流から発生したサーマル火山灰。上面に浸食不整合が認められる。ピンク色火山灰より上がBスコリア上部である。粒径・発泡度・色などの違いによってよく成層している。2週間ほどの時間をかけて堆積した。これにくらべて、ピンク色火山灰の下に頭だけのぞいているBスコリア上部は、小瀬温泉で全体を観察すると、成層構造がほとんどみられない一枚の粗いスコリア層である。8月29日に一気に堆積したと思われる。ただし、最下部10センチだけは細粒の軽石からなる。
上の舞台溶岩を覆うBスコリア上部
上の舞台溶岩は、Bスコリア上部に覆われている。したがって、上の舞台溶岩は1108年9月26日にはすでにいまの場所にあった。
P1010250s.jpg左側の斜面の接写。黒と白からなる特徴的なBスコリア上部だ。高温溶岩によって下から加熱されたようにはまったくみえない。上の舞台溶岩は1108年噴火の産物ではなくて、もっと古いのかもしれない。Bスコリア上部の基底を掘り出して、そこに追分火砕流があるかどうか確かめる必要がある。
広く遠くまで達した追分火砕流
北軽井沢に広がった追分火砕流の厚さは10メートル程度であることが、北軽井沢小学校のそばの農地に掘られた穴の観察からわかる。この穴の深さは8メートルほどだが、基底は露出していない。
 追分火砕流は北軽井沢に広がったあと、地蔵川に流入した。甘楽第一と甘楽第二は、追分火砕流に埋め残された平原火砕流からなるキプカである。

追分火砕流は、地蔵川支流の胡桃沢に流入して低い段丘をつくった(地点18)。

地蔵川に沿って流れ下った追分火砕流の先端。山頂火口からの距離は11.7キロ(地点17)。

 浅間北麓には、北に向かって平行して流れる複数の沢がある。その中で、濁沢だけが両岸に狭いながらも段丘をもっている。浅間開拓の集落はこの段丘の上に形成されている。これは、追分火砕流が平原火砕流台地の間を流れる狭い川をひょろひょろと3キロも流れてつくった地形だ。
 小屋が沢を横切る二本の自動車道のどちらでも、追分火砕流の堆積物を見ることができる。

これは北側の横断道路。追分火砕流は、右岸にこのようなはっきりとした段丘を残している。 大前駅裏にある追分火砕流の堆積物は、大笹に流れ込んだあと吾妻川を下ったのではなく、小屋が沢を細く長く下った火砕流が残した堆積物だ。ここも、山頂火口からの距離は11.7キロである(地点39)。

 大前の南、小屋が沢と大堀沢の間に広がる台地は平原火砕流がつくったものだが、追分火砕流がこの台地の表面を広がって流れたことがわかった。

P1020632s.jpg手前の青黒色が追分火砕流。向こうの褐色が平原火砕流(地点15)。

 畑の土が追分火砕流の青黒色スコリアからなるだけでなく、台地の西端近くに追分火砕流の堆積物が連続して露出する。追分火砕流は大前と大笹の集落がのる段丘をつくったのだから、考えてみれば、沢の中を何筋か下っただけでは量が不足する。
 追分火砕流の西端は東泉沢の右岸にほぼ一致するが、詳しくみると、ところどころで左岸の姥が原にあふれ出している。
この高さ1メートルの崖は、追分火砕流の側端崖だ。右側のキャベツ畑の土はしっとり黒だが、左側の段上の土は砂礫をたくさん含む灰色をなす。

P1030690s.jpg断面はこのように見える。追分火砕流に特徴的な青黒色のパン皮スコリアがたくさん含まれていて、炭化木もみつかる(地点43)。

追分火砕流の上につくられた大笹集落

P1020871s.jpg大笹は、追分火砕流が吾妻川の谷を埋めてつくた平坦面の上に形成された集落である。火山ガスが滞留してつくった赤・オレンジ・黄の水平模様が上部にできるのが追分火砕流堆積物の特徴だ。追分火砕流堆積物に掘った穴の中にはいると、掘ったばかりはとくに、硫黄の匂いがする。 穴の向こうの舗装道路は国道144号(地点40)。

溶結した追分火砕流を刻んだ峡谷
地蔵川にかかる甘楽の橋から、このような峡谷を観察することができる。平原火砕流の谷に流れ込んだ追分火砕流の堆積物を、地蔵川が削り取ってつくった。同様の地形は、胡桃沢川の1064メートル地点、二度上峠に向かう道が片蓋川を渡る地点でも見ることができる(地点19)。
火砕流の流れ分けと失われた地形の復原
 1783年の吾妻火砕流が東西に流れ分けている事実は、それより先に鬼押出し溶岩が火口から流れ始めていたと考える強力な根拠となる。
 同様のことを、追分火砕流についても考えてみよう。追分火砕流は鎌原土石なだれの下にほとんどみつからない。追分火砕流も、真北を避けて、東西に流れ分けたようにみえる。東に向かった流れは北軽井沢に、西へ向かった流れは大笹に達したが、その間に挟まれた鎌原や三原に追分火砕流はない。一方、そういった地点でも平原火砕流や塚原土石なだれは、鎌原土石なだれの下にみつかる。平原火砕流と塚原土石なだれは、北麓に一様に展開している。行く手を障壁に阻まれたようにはみえない。追分火砕流が流れ下るとき、上の舞台溶岩が流下中で障壁になったのだろうか。それとも、火山博物館のそばのいまは窪地になっている場所に小山があったのだろうか。高羽根沢は鎌原土石なだれが通過した真ん中を南から北に流れているが、大前駅で吾妻川に注ぐ地点を除いて、追分火砕流が流入した形跡がない。
 鬼押出し溶岩の先端近くの藤原には、幅200メートル、長さ1200メートルの奇妙な曲がりくねった溝がある。追分火砕流の上に掘られている。これは、柳井沼から発していた水路のあとのようだ。洪水がしばしば発生したらしく、この地域の追分火砕流の表面はラハールの堆積物で厚く覆われている。1783年噴火の直前の地形を知るためには、追分火砕流の分布を詳細に調べることが有効だろう。平安時代に追分火砕流が柳井沼を埋め立てなかった理由は解明されるべきである。
湯の平から北に流れ下った追分火砕流

湯の平から北側に流れ下っているこの火砕流は、1108年の追分火砕流だろう(地点60)。

浸食されずに残った追分火砕流の上面
IMGP1419s.jpg追分火砕流の上にBスコリアの上半部がのっている。火砕流とスコリアの間にはさまざまな程度に赤味を帯びて成層した火山灰が挟まれている。近所の追分火砕流堆積物が二次爆発して降り積もった火山灰だと思われる。
 この露頭のように火砕流堆積物の上面が保存されていることは、めったにない。ふつうは噴火後すみやかに水流によって洗い流されてしまう。ここは、4週間後にBスコリア上部によって被覆されたために浸食されずに残った。
追分火砕流堆積面の起伏
 平原火砕流や塚原土石なだれは、起伏に富んだ地形をすっかり埋め立てて平坦面をつくった。追分火砕流は、それほど厚くもなく、かといって薄くもなく、10メートルほどの厚さで地形を覆った。
だから、その表面は元の地形を反映して、これくらいの起伏がある。群高の牧草地

 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。