井出道貞(1756-1839)による『天明信上変異記』に次の記述がある。
 「享禄四年辛卯十一月二十二日大雪にて、降り積る事六尺又は七尺の所もあり、二十三日二十四日晴天に而、二十五日より二十七日迄時々降りける、然るに二十七日浅間山大に焼出し、大石小石麓二里程の内雨の降る如く、中にも大原といふ所へ七間餘の岩石ふりける、是を七尋石と名づけて、今に有。灰砂の降る事三十里に及べりとぞ、無間谷といへるは浅間を引まはし、巌石峨々として恐しき大谷なり、前掛山といふは、焼山を隠して佐久郡に向、鬼の牙山黒生山の間谷に右の大雪降り積もりし処に、焼石のほのほにて一時に消えたり、又二十七日七ツ時より大雨となり、二十九日まで昼夜の別ちなく降りければ、山々の焼石谷々より押し出し、麓の村々多く跡方なく流れしとそ、其後街道不通路になりしを、其時の領主近郷へ申付、小ともかたよせ、四年が間にて街道普請成就せり、今に至り山の半腹街道筋皆焼石のみなり、是降りたるにはあらず、其時押し出せし石なり。」
 『天明信上変異記』も天明三年(1783年)の噴火のあとに書かれた記録である。享禄四年十一月大雪のあと、二十七日(1532年1月4日)に浅間山が噴火して泥流が発生し、多数の村が流され、街道を修復するまでに四年かかったという。
 八木(1936)は、地質図の蛇堀川中流に「七尋石」の文字を書き込んでいる。そこへ行くと、いまでもその石を見ることができる。長さ20メートルほどの巨岩である。塚原土石なだれが運んだ赤岩とはちがう。『天明信上変異記』は「七間餘の岩石ふりける」と書いているが、これほどの巨岩が空中を飛んで山頂から7キロ離れたこの地点に落下したとは考えられない。これは土石流としてここまで流れてきた岩石である。

 『天明信上変異記』が事実をどこまで忠実に書き残しているかは、同時代に書かれた原史料がみつからないかぎり判断できない。16世紀は、日本各地で洪水の被害記録が多い時代である。降雨によって泥流が発生したのはおそらく本当だろうが、浅間山が噴火した証拠はまったくない。

七尋石
 
浅間火山北麓の電子地質図 2007年7月20日
著者 早川由紀夫(群馬大学教育学部)
描画表現・製図 萩原佐知子(株式会社チューブグラフィックス
ウェブ製作 有限会社和田電氣堂
この地質図は、文部科学省の科研費(17011016)による研究成果である。
背景図には、国土地理院発行の2万5000分の1地形図(承認番号 平19総複、第309号)と、 北海道地図株式会社のGISMAP Terrain標高データを使用した。