浅間火山の噴火史

浅間火山は,黒斑山(くろふやま)・仏岩(ほとけいわ)・前掛山(まえかけやま)からなる三世代火山である.黒斑山は安山岩からなり,末期にデイサイト軽石を何回か噴出した.仏岩はデイサイト溶岩と軽石からなる.前掛山は安山岩の火山錐である.

南からみた浅間火山

黒斑期(4万年前?〜2万2000年前)

いまから2万2900年前(以下,22.9kaのように記述する)のある日,黒斑山の山体が東へ大きく崩壊した.高速で流れ下る土砂からなる岩なだれは,まっすぐ東へ進んで白糸の滝(地点6)ふきんの平坦な高まりに達したのち,北と南へ分かれて流れ下った.

北へ向かった流れは長野原町応桑(地点10の東)に多数の流れ山を形成したが,そこで停止せず,多量の土砂が吾妻川に流入した.渋川で利根川に合流したあと前橋で関東平野に入ったこの岩なだれは,緩やかな河床勾配のために流速が衰え,厚さ十数mの堆積物をそこに残した.これが前橋台地である.

南へ向かった流れは南軽井沢(地点1の北)に流れ山をつくったのち南西に向きを変え,佐久市塚原(地点4の南)に達した.千曲川がそこで南西に湾曲して流れているのはこの押し出しによる.相当量の土砂が千曲川を下ったと思われるが,利根川の前橋台地に対応する地形は千曲川にみられない.この岩なだれ全体を塚原岩なだれとよぶことにしよう.塚原岩なだれの発生源である黒斑山には,東に開いた馬蹄形カルデラが残された.

浅間山の東方地域では,この時期の降下テフラを5枚観察することができる.下から,板鼻褐色BP0,BP0.5,BP1,BP2,BP3軽石である.5枚の軽石層の間にはそれぞれ噴火休止期に堆積した厚さ10cm程度のレスが挟まれている.BP2軽石の下にレスを挟まずに直接塚原岩なだれ堆積物があることを南軽井沢の塩沢湖ふきん(地点3の東)で確かめることができるから,BP2噴火事件の経緯は次のように組み立てられる.

地下深所から上昇してきたデイサイトマグマが山体を押し上げて重力的に不安定にし,ついに大規模崩壊に至って岩なだれが発生した.荷重が取り除かれたため,デイサイトマグマが火道内をすみやかに上昇してきてプリニー式噴火が始まった.これは,アメリカ合衆国ワシントン州のセントヘレンズ山で1980年5月18日に起こった事例を念頭において作成したシナリオである.セントヘレンズ山の事例では,荷重除去による急激な減圧のために山体内にあった潜在溶岩ドームが大爆発を起こした.その爆風は700km2の森林をなぎ倒し,最大27km地点まで到達した.黒斑山の事例では爆風が発生したかどうかまだ確かめられていない.

馬蹄形カルデラを修復すると均整な円錐形火山体が復元できるので,黒斑山は22.9kaの直前1〜2万年以内に一気に形成された火山であると思われる.

仏岩期(2万2000年前〜1万5000年前) 

仏岩は弥陀ヶ城岩ともよばれ,前掛山になかば覆われる形でその東に位置する.数枚の厚いデイサイト溶岩流からなる火山体である仏岩は黒斑山の崩壊後まもなく噴火をはじめ,15kaに平原火砕流が流出するまで,1000〜2000年おきに大規模な軽石噴火を繰り返した.

その初期には山麓の2ケ所で山腹噴火も起こった.21kaに旧軽井沢と中軽井沢の中間地点から起こった噴火では,まず雲場熱雲が噴出したあと,その火道を離山溶岩ドームが埋めることによって終わった.20kaには峰ノ茶屋(地点5)ふきんから噴火が始まった.高さ40kmを超えるプリニー式噴煙柱から白糸軽石を降らせたあと小浅間溶岩ドームが火道を埋めて噴火が終わった.このあと,18kaと17kaにもプリニー式噴火(大窪沢1,大窪沢2)が山頂で起こり,それぞれ火砕流を南へ流した(中沢ほか,1984).

15kaに起こった噴火は浅間火山の形成史上最大規模の噴火だった.まず,板鼻黄色軽石(YP)が東南東に降った.これは埼玉県本庄市で10cmの厚さがある.このあと火砕流が北麓と南麓へ何回も下り,広い火砕流台地を形成した.その堆積物は,北麓では嬬恋村大前ふきんの吾妻川右岸(地点11の西)に,南麓では小諸市のそばを流れる千曲川右岸に連続した高い断崖が露出している.御代田町平原(地点4)ふきんにみられるきわめて平坦な地形はこの火砕流がつくったものである.この平坦面が顕著なことと,浸食谷である田切の壁で火砕流堆積物の断面が観察しやすいことから,ここを模式地としてこの火砕流を平原火砕流とよぶことにしよう.これは,表面に流れ山をもつ塚原岩なだれとの対照を意識した命名である.

火砕流が流下するたびにサーマルが生じて火山灰を高空に持ち上げた.その結果,火砕流発生回数の多さを反映してよく成層した火山灰層が広い地域に堆積した.ただし,この中には火砕流堆積物からの二次爆発で生じた降下火山灰も含まれているとみられる.この火山灰層の下から約1/3の層準には,YPとよく似たプリニー式軽石が挟まれている.この軽石の分布軸は北北東に向かい,草津温泉で70cmの厚さがあることから草津軽石(YPk)とよばれている(新井,1962).嬬恋つまごい軽石とよぶ人もいる(荒牧,1968).YPkは上越の山々を覆い,さらに日本海の海底でも見つかるので,最後の氷期の編年に重要な鍵層である.

前掛期(1万5000年前〜現在)

初期の前掛山の噴火については詳しいことがわかっていない.他の火山の事例から類推すると,平原火砕流の噴火直後に火山錐の形成をはじめ,1000年くらいで現在の高度(2568m)にほぼ達したのではないかと考えられる.

最近の大噴火は1783年に起こった天明噴火が有名である.この噴火では,プリニー式噴煙柱からA軽石を降らせつつ,吾妻(あがつま)火砕流・鬼押出し溶岩流・鎌原(かんばら)岩なだれが発生した.その675年前,1108年の噴火のときはこの2倍量のマグマが噴出した.まずプリニー式噴煙柱からBスコリア下半部を降らせたあと追分火砕流が流出し,つづいてBスコリア上半部と上の舞台溶岩流がつくられた.

古墳時代の4世紀に起こったC軽石の噴火(新井,1979)では小滝火砕流と丸山溶岩が流出した.これより古い前掛期の大噴火には,D軽石(5.6ka),E軽石(6.81ka),総社軽石(13ka)などが断片的に知られているだけで,テフラ層序がまだ確立していない.

大噴火と大噴火の間にはマグマ活動が活発なときと静穏なときがあるらしい.観測記録が整備されている明治以降をみると,2回の活発期(1899〜1914,1927〜1961)を挟んで静穏期が3回認められる.活発期には一日に数回,山頂火口で爆発を起こし,岩塊を最大4kmまで飛ばす.年間爆発回数がもっとも多かったのは1941年で,398回を数えた.現在は明治初年当時と同じくらい静穏な状態が長く続いている.しかし,11年3ヶ月ぶりに起こった1973年2月1日の爆発のように,ほとんど前ぶれなく噴火することもあるので注意が必要である.

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引用文献


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