地学雑誌104(6) 843-864, 1995

史料解読による浅間山天明三年(1783年)噴火推移の再構築
田村知栄子・早川由紀夫

Reconstruction of the sequence of the 1783 Asama eruption from the ancient literature
Chieko Tamura and Yukio Hayakawa

Abstract
An immense quantity of the ancient literature exists on the great eruption of Asama in 1783. They were written on the northern flank of the volcano, Joshu, and also on the southern flank, Shinshu, including some diaries written in Kanazawa, Edo (present Tokyo), Nagoya and as far as Kyoto (300 km SW). They have been compiled by Susumu Hagiwara exhaustively for forty years and published recently. We read them critically to reconstruct the sequence of the eruption. The first explosion was noticed on May 8, by the Gregorian Calendar. The volcano had been erupting at the summit crater intermittently since. On August 2, the tephra-fall from a Plinian eruption column became so intense and continuous in Shinshu that the inhabitants prepared for flight. In the afternoon of August 4, the Agatsuma pyroclastic flow spread northward up to 8 km from the summit. Coincidentally, hot lahars, caused by slumping of steep slopes thickly covered with fallout pumice, had successively surged along the Yukawa River southward to Kutsukake (present Naka Karuizawa), where a house was overwhelmed and another flooded under floor. The climactic phase attained late at the night and maintained until the morning of August 5, during which the Oni Oshidashi lava overflowed from the northern lowest rim of the summit crater. At 10 a.m. of August 5, a part of the northern flank suddenly collapsed, probably triggered by a strong earthquake. It gave rise to the generation of debris avalanche which destroyed Kambara Village. At the same time, the flank failure resulted in an explosive decompression of the inner massive part of the Oni Oshidashi lava flow to produce a Pelean nuee ardente. The debris avalanche turned into a hot lahar after it cascaded into the Agatsuma River. It caused a disastrous flood on the lower part of the river and reached Edo at 2 p.m. of the same day. A large-scale collapse occurred reportedly at 8 a.m. of August 1 at Kananuma Village may not be a fact.


1.はじめに
 火山の噴火史の組み立ては,ふつう堆積物の層序学的・堆積学的研究によって行われる.これは研究対象となる火山噴火事例の多くが,人が文字をもつようになるより前の時代すなわち地質時代に起こったからである.しかし堆積物には,1)時間情報が精度よく記録されない,2)小規模な噴火の記録が残りにくい,3)噴火にともなう地震や地殻変動などの記録が残りにくい等の短所がある.
 一方,歴史時代に起こった噴火は,古記録など(以下史料という)にその記述が残っている.史料による噴火史の組み立ては,1)噴火年代を日時の単位まで精度よく決められる,2)噴火推移を克明に知ることができる,3)地震や地殻変動の記録も同時に得られる等の長所がある.
 浅間山で天明三年(1783年)に起こった噴火には,膨大な史料が現存する.萩原進は長い年月をかけてこれらの資料を収集整理して『浅間山天明噴火史料集成I〜IV』(萩原,1986,1987,1988,1993)として集大成した.この萩原史料を材料にして,浅間山の天明三年噴火の推移を復元するのが本論文の目的である.
 この噴火は,すでに堆積物と史料の両面から荒牧重雄によって研究されている(Aramaki, 1956, 1957;荒牧,1993など).その概要は次のようにまとめられる.
 新暦5月9日(旧暦四月九日)最初の噴火が起こった.その後何回かの静穏期をはさみ,7月26日から本格的な噴火がはじまった.7月26日から8月2日ころまで断続的に活動が続いた.8月2日の夜から噴火は激しくなり,8月4日の夜に入って噴火強度は急激に上昇した.天明の降下軽石層の上半部は8月4日から8月5日にかけて降下したものである.吾妻火砕流は,降下軽石の大部分よりも後で鎌原火砕流よりも前に発生した.8月5日午前10時に山頂火口で大爆発が起こり,多量の岩塊を噴き上げた.岩塊は北側斜面になだれのように落下し,火砕流となり流下した(鎌原火砕流).吾妻川に流入以後は泥流となり江戸(東京)まで流れ下った.鬼押出し溶岩流は鎌原火砕流よりも新しいことが確実であるが,その直後であるという確証はなく,いつ流出したかを書いた史料はない.
 私たちが萩原史料を火山学的に解釈することによって構築した天明三年噴火の推移は,荒牧のまとめと次の点で異なる.
1)噴火開始は5月9日でなく,5月8日だった,
2)8月4日夕方,軽井沢で降ってきた軽石に当たって死んだのは一人でなくおそらく二人だった,
3)8月4日夕方から,湯川を熱泥流が何度も下って沓掛(中軽井沢)の住家に被害を及ぼした,
4)鬼押出し溶岩は,8月4日深夜の軽石噴火クライマックス中に盛んに流出した,
5)荒牧の鎌原火砕流は,二つの火山現象(岩なだれと熱雲)から構成されていた,
6)鎌原岩なだれ+熱雲の発生源は山頂ではなく北山腹だった疑いがつよい.

2.史料評価
 一概に史料といってもさまざまな性質をもったものがあり,史料によってそれが書かれた目的は異なっている.今回あつかった史料のひとつ一つの中にも,各作者の意図を見ることができる.それぞれの史料は,形式によって一般記録に分けられる.
 日記は,幕府や藩によるものと個人によるものとに区別することができる.後年に編纂されたものでなければ,どちらも火山学的価値が高い.毎日書かれた日記の日時の記述には信頼がおける.幕府や藩によるものでは,書き手の主観が除かれるから,事実を知ることがとくに容易である.『浚明院殿御実記』はそのような日記である.個人によるものは,『沙降記』『歳中万日記』『足利学校庠主千渓日記』『多忠職日記』『森山孝盛日記』がある.
  一般記録は,幕府や藩の報告書・個人の覚書・戯作化された読本的なものに区別することができる.幕府や藩の報告書には,為政者の故意による改竄がないかぎり,信頼性が高い.個人の覚書は,良心的なものからいいかげんなものまでさまざまである.読本的なものはかなりの部分創作が織り混ぜてあるので,信憑性は低いと言わざるを得ない.幕府や藩の報告書には,『浅間山焼に付見分覚書』『加賀藩史料』『癸卯災異記』がある.『天明三同七天保四帳』『浅間山焼出記事(全)』『浅間山焼記録』『浅間山焼昇之記』は,幕府や藩の報告書を引用し編集したものである.一次史料をそのまま集録してあり信憑性は高い.個人の覚書には,在野の研究者によってかなり科学的な態度で書かれた史料も多い.『天明浅嶽砂降記』『天明三年七月砂降候以後之記録』『信州浅間山之記』『浅間焼出大変記』『天明信上変異記』『天明雑変記』『浅間山癸卯之記』『信濃国浅間ケ嶽の記』は,科学的な立場に立って慎重に書かれたもののようだ.『浅間焼出大変記』は,筆者が修験者であるためか,非科学的な表現も目立つ.また大規模な噴火の記録を,後生のためにできるだけ正確に伝え残そうとした意欲の読み取れる史料も多い.『浅間記(浅間山津波実記)』『天明浅間山焼見聞覚書』『浅間山大変実記(蓉藤庵)』『天明卯辰物語』『浅間天明録(信陽浅間天明実記)』『甲子夜話』『秋之友』がそれである.『信州浅間山上州石砂之大変』『浅間焼見聞実記』『天明三卯年浅間焼砂降候大変之事』『信州浅間砂降之記』は多くの風聞を,吟味し集録している.しかし興味本位に風聞を書き留めた史料もある.『信州浅間山焼附泥押村々并絵図』『信濃浅間嶽焼荒記』『浅間山大変略記』はそのようなものといえよう.また実際に被害のあった地域では,被害状況を克明に記した史料が多い.『浅間山大変覚書』『浅間焼出山津波大変記(浅間山大変記)』『浅間山大変日記』・『浅間嶽大焼泥押次第』『浅間山大焼変水已後記録』『利根川五料河岸泥流被害実録』『天明度砂降記』『泥濫觴』『浅間山大焼一件記』『浅間山大焼無二物語』がそれである.『さたなし草』『年號記』は名古屋で書かれたものである.
 他本の影響を強く受けた史料も見られる.『浅間焼出大変記』は類本が多く,一部引用したものまで含めると上州ばかりでなく信州まで流布している.本論で言及したものとしては,『浅間焼出山津波大変記(浅間山大変記)』『浅間山大変日記』がその影響を強く受けているといえる.『天明信上変異記』や『天明雑変記』は信州を代表する史料といってよく,多くの史料に影響を与えている.本論で言及したものでは,『信州浅間山之記』『信濃国浅間ケ嶽の記』がそれである.
 読本的なものとしては『浅間山大変実記(古籏玉寶)』がある.
 一般的にいって,上州側よりも信州側のほうが科学的でしっかりした内容の史料が多いようである.中山道が通っていたことが,信州側の文化水準を高めていたのかもしれない.

3.軽石・火山灰の降下
 以下,漢数字による日付はすべて旧暦である.また,史料引用の末尾に萩原史料の巻数と頁数を付記する.

3.1 噴火開始とその後の推移
 次の三つの史料は,天明三年四月九日に最初の噴火がおこったと書いている.
「一,四月八日諸人登山,同九日より焼初ると沓掛宿立札有.」    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.35

「先当四月九日焼候所拾里四方ニて雷電かじしんかと思へハ浅間ニ焼立焼上ル」
  『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.122

「天命三卯四月九日初に焼出し煙四方に覆,大地鳴ひゝき地震の如し.」
    『浅間大変覚書』 〔無量院住職〕 IIp.48

 しかし,次の二つの史料には,四月八日から噴火が起こったとある.
「毎年浅間山へ四月八日四ツ前に登る,此日祭礼有.四ツ時過候ては焼候ゆへ不能登事.」
  『信州浅間山上州石砂之大変』 阿部玄喜 IVp.223

「四月八日ニ雨降り,浅間山鳴候テ下沢渡ノみの原辺原岩本村辺ハ青草ノ上ニ白ク灰ふり.」
   『〔天明浅間山焼見聞覚書〕』 IIp.157

 四月八日は浅間山の山開きにあたる日で,昔の年中行事では「卯月八日」といって四月八日有名な山に登山する慣わしがあった.群馬県の山間部では,この日にふじの花を門口に飾って山の霊を家に迎える行事の名残りが見られるという.浅間山麓の村々の人や信仰集団には四月八日に登山するしきたりがあったようだ.おそらく天明三年の年も山開きに合わせて多くの人々が登山したと思われる.その中で午前十時に噴火が起こり山に登ることができなくなってしまったという.多くの史料では九日から噴火が起こったとしているが,このような事情から八日に山に登った人の証言には信憑性があると考えられる.麓の村々で大きな揺れを感じだしたのは翌九日になってからだったのであろう.上州側(北側)の下沢渡では八日に降灰を確認したという.
 二月中から噴火がおこっていたという史料もある.
「天明三の年癸卯春二月の比より信濃国浅間山焼出し,三月中比迄は一日ふた日又は四五日間あってやけつゝ卯月十日比より日毎に車ひくごとくどろどろとなり渡り,」
    『浅間燒見聞実記』 横田重秀 IIIp.281

 この史料は,二月ころから噴火が始まり,三月は数日おきに噴火した.四月十日ころからは毎日のように鳴動があった,と書いているが,類似の記述を他書にみつけることができないので,事実であるかどうか疑わしい.
 五月には二十六日,二十七日に噴火があった
「一,五月廿六日卯刻より鳴□(“古”の下に“又")石臼の音の如し.午刻より煙落し,二十七日申刻鳴動,酉刻終.」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.35

 六月十八日の噴火では北方向に軽石が厚さ9cmほど降下したことが,次の史料からわかる.しかし,この地域にそのような軽石層をいま認めることは難しい.いや、その後、溶岩樹型の西の沢壁で確認できた。
「六月十八日浅間麓田代,大笹,大前,鎌原え小石三寸程降ル.」
『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.122

 六月二十六日から活動が本格的となり,七月二日まで断続的な噴火を繰り返した.三日,四日と穏やかだったが,五日から再び活発化した(『天明雑変記』など).五日からの噴火はかなり激しくなり,浅間山南麓の村々では逃げ出す者も出てきた.
 七月六日の午後五時ころから上州の安中では赤い灰が降ったという次のような記述がある.天明軽石層の下部に挟まれるピンク色火山シルトに対応するかもしれない.このピンク色火山シルトは,火砕流の上に立ち昇ったサーマル雲からの降下物だと思われる.
「一,同六日酉上刻頃より灰降至て困ル也.其色赤し.」
『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』 成風亭春道 IIIp.247

3.2 軽井沢宿と沓掛宿での被害
 『天明雑変記』などによれば,軽井沢では七日の夜噴火が激しさを増す中で混乱状態となり,暗闇の中を南へ向けて逃げ出す人が多かった.軽井沢宿は分布軸に近くて降下軽石が多量に降りはしたが粒径が小さかったため,住人は七日夕刻まで逃げなかったようだ.一方,沓掛宿・追分宿の住民のほとんどは七月七日の日中までに逃げ出していた.これは分布軸からはずれていたために軽石の堆積量は少なかったが粒径が大きかったため,人々に恐怖を与えたからであろう.  
「一,……追分沓掛両宿ハ六日未刻より老人子供を先に進め,牛馬に家財を附送り究□(「立」かんむりに「見」)の人を家の番に残し,七日暮合に皆迯出し,」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.36

「一,軽井沢へ五日六日両三度に砂五寸余降りけるといへともさせる用意のなかりしは油断とも言つへし.七日暮合の大焼に大石火玉交て降りければ,人々転動,上を下へと騒ぎ立,てうちん,松明,家財を牛馬に付るやら,薄べり・布団・ざる・戸板・木鉢等を笠に着て或ハ引て行も有,売女,旅人も己か荷物の一品も持や持すに皆我先にとあわてうろたへ,夕飯昼飯一時に迯出し,生土の森に集り評議しけるか,叶はしとや思ひけん発地村をさしてかけ行.野道案内知らぬ者多く,殊に七日暮方より焼煙草木を覆て捲し故途方にくれ,堰溝又沼などへかけ入て泣悲しむを耳にも懸す迯走る.」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.37

 七日夕方の混乱はかなり大きな(径30cmくらい?)灼熱した軽石塊の降下によって発生したらしい.降り注ぐ軽石によって火事が発生し,軽石に当たって怪我をする人が多かった.その中で丈次郎という青年が打ちどころが悪く即死してしまった.この事件が混乱に拍車をかけたようで,人々はあわてて逃げ出したという.
 逃げる途中で命を落とす人も少なくなかった.当時は疱瘡(天然痘)がはやっていて,治りきらないうちに逃げ出して命を落とした子供もいたようだ.また“血積”の持病(心臓病?)をもつ女性が避難途中で発作を起こして亡くなったという.軽井沢の下宿で軽石に当たって旅人が死んだとあるが,これは丈次郎のことだろうか.その後行方知れずとなった人たちも多かったようで,飯盛女の多くはこのどさくさにまぎれて逃げ出したらしい.これらのことは以下の史料からわかる.  「                 中山道信州佐久郡                      軽井沢宿
……当月七日四ツ時頃より大石夥敷降懸り,年寄又八と申者之屋根江火石と火玉落かゝり即時ニ燃上り,夫より一宿不残焼候趣ニ御座候.名主六右衛門と申者父子水帳其外御用書物取出度命限り相働外へも取出シ候処かぶり候竹笠御座両度大石落かゝり相倒れ申候.漸々起上り迯去候由.六右衛門娘妹下女両人何方へ参候哉夜中之儀故不相知候.定而石にうたれ相果候儀と存候旨六右衛門申候.其外怪我人死失人之程難斗御座候.」
 『天明三同七天保四帳(抄)』 長島尉信 IVp.252

「こゝに同所喜八と申者の子息丈次郎行年二十二歳,昨午刻茶釜程の火石首に落かゝりあへなく即死す.其外手負多しと聞こゆ.」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.41

「其節丈次郎と申者火石ニ被打即死致候由.」
  『浅間山焼に付見分覚書』 根岸九郎左衛門 IIp.346

「其節軽井沢下宿ニテ廿四五才之男焼石ニ打れ即死ス.此火玉硫黄石ニて落ルと花火の如し.左右江ちる.是ヲ見て旅人不及申町内荷物ヲ仕舞南ノ方と心懸ケ迯退キ,」
         『浅間山大焼無二物語』 IVp.151
  
「軽井沢佐藤何某かが言.……同宿寅之助と云若者火玉に打れ即死す.」
『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』 成風亭春道 IIIp.248

「七日の夜,榊原式部大輔様荷才料両人,軽井沢宿ニ止宿の折柄右の次第故,……宿の庭にて大石にてあたまを打たれ死す.」       『泥濫觴』 向 伯輔 IIIp.186

「此峠ニて哀なる事有.五六才の男之子疱瘡をしていまだかせきらざるに迯出し,此山中にていききれ終ニ相果たりけれハ,……其外ニも軽井沢下宿ニて旅人焼石に打殺されけるとなり.扨追分の女良壱人血積の持病有けるが,八日大焼に驚き迯ける時持病指起り平原村にて終死けり.其外当才之赤子又ハ驚風強き小児抔此節不業の死人多く有けるとなり.」     
『天明卯辰物語』 〔内堀幸助〕 IVp.105

「一,爰に塩沢村粂右衛門ト申物の男子三才なるがほうそうの重かりけん,途中にて死けれハ…….」  
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.38

「飯盛女なとハ時を幸ひに逃走るも有.斯る時節なれは尋んにも力及はす其侭捨置も有しとなり.」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.39

 これらの記述をよむと,軽井沢で死亡した人物は複数(二人?)いた印象を受ける.しかしどの史料でも死者は一人であるとしている.史料の信憑性から判断すると,幕府史料(『浅間山焼に付見分覚書』)に記されている「丈次郎」が死んだのは確実だろう.しかし『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』では「寅之助」としている.七月七日に軽井沢で死んだのは二人だったのではないだろうか.丈次郎は軽井沢の住人であったと思われるので,寅之助は,『泥濫觴』でいう荷物運びの旅人のほうだろう.軽井沢の下宿で死んだ二十四五才の男は,榊原式部大輔の荷物運びをしていた旅人で寅之助という名前だったのかもしれない.旅人であったので,軽井沢宿の記録に残らなかったのだろう. 
 軽井沢で降った極端に大きな軽石塊は沓掛でも降った.『天明雑変記』(IVp.42)によれば,沓掛で“茶碗”ほど,坂本で“握り飯”ほどの軽石も降ったという.また下発地村でも径15cmほど(?)の軽石塊が降ったことがわかる.このような大きさの軽石をいま堆積物の中で見つけることは難しい.
「下発地村,……庭前に壱升桝程の火玉飛落て藁しべに燃付けるに見て肝を潰し,」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.37

「火石は益甚しく発地与兵衛と云庄屋の家へ立臼ほど有火石落て庭中へ散乱しければ発地人々斯てハ叶じと四方へ散乱しけるが,」
       『浅間山大変実記』 蓉藤庵 IIp.198

 沓掛でも軽井沢と同様に降下軽石によって火災が発生している.しかし沓掛では降下量が少なかったため,屋根に降りかかった軽石を振り落として延焼を防ぐことができた.
「一,七日晴.……絶間なく夜に入斗樽程の石落,沓掛宿友之助と言者の家根を打抜畳切ル.又火降燃付ける所三十六ケ所撰人足四十五人にて防留ける.」   
 『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.36

 一方軽井沢では降下量が多かったため消火の手が追いつかず,さらに軽石で用水が埋まってしまったため消火用の水が不足して,火災が広がってしまった.また十日に雨が降ったことで屋根に積もった軽石層の重さが増し,多くの家屋が倒壊した.「扨七日之夜四ツ時火玉ふりし時軽井沢下宿京ノ方より右側山伏之屋根かやぶきなれバ燃付夫より江戸之方へ表家数四拾七軒類焼ス,……十日之夜雨降ル,家根ニ溜りし石砂炭に水ふくみ古き家潰シ又ハ家根抔ぬけし家多し.」
  『浅間大焼無二物語』 IVp.151

「其上軽井沢の儀も掘井戸無之,川越川を堰上,宿裏左右ニ掘筋有之呑水ニ仕来候砂石ニて押埋呑水流行無之,坂本同様難儀之旨.」
  『浅間山焼に付見分覚書』 根岸九郎左衛門 IIp.346

「一,宿内用水一雫も通用無之に付老若男女宿内不残罷出候て川筋掘割候へども掘よりも余計に上より降り,山崩れ候ゆゑ決て一露も水の気御座なく,殊に当宿には井戸無之場所に付生米を噛喰ふ事と致し候.第一火の用心危く候ゆゑ火の元専一と仕候処,」 
   『浅間山大変日記』 IIp.245

 軽井沢宿の被害は,家数186軒中,70軒が潰れ,51軒が焼失,65軒が大破した(『浅間山焼に付見分覚書』IIp.346).追分宿,沓掛宿でも何軒か家が潰れたようだが,その数は少なかったようだ.

3.3 上州側での被害
 それでは,上州側は激しい噴火の最中にどのような対応がなされたのだろうか.特に降下軽石の被害については碓氷郡で多かった.しかしこれらの地域から提出された注進書(被害届)の数は少ない.坂本宿では,172軒中,59軒が潰れ,103軒が大破した(『浅間山焼に付見分覚書』IIp.345). 坂本宿以外でも,各地で降下軽石が屋根に降りかかったために家が潰れることがあったようである.安中では潰れた家の下敷きとなって死亡した人もいたという.
「七月七日の夜土塩村乾窓寺といへる寺に用事ありて行一宿しける其夜砂降り,……此屋根へ雷落ちかゝり打潰しぬれば,……
 又此寺の近き処に家つぶれ亭主しんしばりとやら落て頭を打砕き即死するなり.草葺きの家はよけれど板屋根は砂こけ落ざるゆへおもりかゝり潰れける家多し.」
     『浅間燒見聞実記』 横田重秀 IIIp.290

「安中宿ニ而家四軒潰レ,御城内ニ而壱軒潰レ,仲間壱人即死いたし候よし.」
『天明三年卯六月浅間山大燒一件記』 長左衛門 IIIp.321

 高崎での様子を記した史料によると,当時の人々は噴火を鬼の仕業と考え,大きな音で追い払おうと考えていたことがわかる.この史料では高崎では30cmほど降灰があったと書かれているが,現在の現地の調査では実際には5cmほどである.「高崎,倉かね辺壱尺余,…….然所高崎右京太夫様御屋敷より高てうちん二はり先ニ立テぢんせうぞくニて乗り出シ,鉄砲持大勢つれしんどうらいでん之中えこくふニ打込,町々の若ものニかね,たらい,どら,めうはち,かね,たいこ打ならさせ,時之こへヲ上ケ町々ヲ廻ル.其外年寄女中ハ百万べん町ごとニて申候得共いかないかなどろどろ焼しんどうらいでん更ニ不止.直ニいかづちなり落ル様ニひっかりわりひっかりわりすればのきの下にかがみ又なりだせば出てしやぎり,よふよふ申ノ刻ニ成り情天ニ成ル.」
 『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.122

3.4 噴火の終息
 八日午前八時過ぎ,激しい噴火は収まった.その後の噴火活動についての記述はさまざまである.八日をもって終了してしまったとするものもあれば,その後も長く続いたとするものもある.多くの人々は七月七日,八日の惨劇にのみ目が奪われてしまったようである.八日以降は泥流による災害発生や,被災地の復興に関心が注がれていたようだ.
 『浅間山焼に付見分覚書』(IIp.345)によると,軽井沢や坂本で八日夕方に泥のようなものが降ったことがわかる.この泥のために砂石の表面が固まってしまい,復旧作業が大変であったと記されている.『軽井澤町志 歴史篇』(岩井,1954;p.299)の中には,名主六右衛門の記述として,「八日夕方よりどろ様のものなど降り積り,」とある.これから,はっきりした時間は分からないが夕方であったことがわかる.この「泥様のもの」というのは,堆積物として現在確認される天明軽石の上部約20cmにまじる泥ではないだろうか.一方鎌原熱泥流に伴っても,上州側では泥が降ったことが史料からわかる.鎌原熱泥流に伴う泥は昼ごろに降っており,夕方に降った泥とは別である.
 いくつかの史料には,八日以降も降灰などの火山活動があったことが記されている.
「一,(七月)十一日ハ雨降出申候処終始灰降止不申候事故,雨ニ混シ泥ノ雨降申候.尤足疼候程ノ地鳴ハ不絶仕候.」
        『浅間山焼出記事(全)』 IVp.268
「一,……(七月)十八日ニも砂ふり申候..十九日ニも少々降申候.」(群馬郡吉岡町)
  『歳中万日記(抄)』 中島宇右衛門 Ip.295

「一,七月十八日,廿日両日馬の毛の様成白き毛降る.」
    『浅間山大焼変水已後日記』 石原清蔵 IIp.315

「浅間打続焼不止シテ八月十七日迄申刻時分より右石砂ふらさる.塩野村馬瀬口八幡村柏木村平原村御影村小田井宿横根村平尾辺ヲ少シツゝ灰降ル.夜ニ入さむく雨ニ交り灰ふり,尤小諸迄少々ハ降也.」        
 『浅間山大焼無二物語』 IVp.153

「七月八日に浅間おし出し,其跡にても九月十日頃まて雷の鳴如き(し).草津へもはらりはらりと荒き砂降り,中に白き毛交り降り五寸七寸壱尺位にたらす.」
『浅間焼出山津波大変記(浅間山大変記)』 山口魚柵 IIp.109

「九月十日登山致見及所,…….この日は山静か也といへとも砂煙絶間なく吹出し袖袂を顔に覆ひ,…  
実に未横に煙吹出す躰恐敷事言斗なしと急ぎ梺に下る.其時鳴動し煙立登る事冷し,危事也き.」
    『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.52

 少なくとも七月中旬ころまでは,時には白毛(火山毛)が噴出されるほどマグマの活動が活発であったことが,上記の三つの史料からわかる.九月に入っても火口付近では活動が活発であったことや,八月九月まで降灰があったとする記録もある.

3.5 遠隔地で観察された天明噴火
 ここまでの記述は主に浅間山南麓についてのものである.浅間山から遠く離れた場所(図1の各地点)ではこの噴火がどのようにとらえられていたのかまとめてみよう.これらの記述から噴火の細部を知ることはできないが,噴火の全体像を把握するための史料として貴重である.

 伊勢崎での記録 『沙降記』(伊勢崎藩 関 重嶷 Ip.264)に詳しい.これは日記であるので記述の信頼度は高いと思われる.伊勢崎は浅間山の東60kmに位置してる.そのためこの地点での降灰は浅間山での噴火から約1時間遅れる.砂が最も激しく降ったのは七月八日午前0時ころらしい.これは八日正午ころまで続いた.八日午後二時の泥雨と異常震動の地震は鎌原熱泥流に関係するものであろう.
七月二日 夜中に地震があって灰が降った.
  五日 昼すぎ地震が何回もあって,夕方砂が降り,夜中に灰が降った.
  六日 終日砂が降った.夜中に雷と地震が激しかった.
  七日 地震がますます甚だしい.昼になっても暗夜のようだ.終日雷鳴が轟き,砂がますます降る.24時,地震が激しい.砂が暴雨のように降る.
  八日 12時ころ,雷鳴と降砂がようやく止む.14時前,泥雨がにわかに降った.頻繁に地震が起こった.先日の地震と異なり(揺れの)方向が定まらない.17時,「利根川に洪水が起こって民家・巨木・人畜が漂流している」と,五十嵐義知が来て告げた.

 足利での記録 『足利学校庠主日記』(千渓Ip.355)に詳しい.これは足利学校の校長の日記である.足利は浅間山の東84kmに位置する.内容は伊勢崎の記述とほぼ一致している.八日の正午ころには山鳴りも降灰も終息に向かったようだ.
七月二日 灰すこし降る.
  五日 夜更けより山鳴る.砂降る.
  六日 20時ころより山鳴り出し,砂が雨のように降る.板屋根の音が雨のようだ.夜中じゅう降り続いた.
  七日 朝になっても暗い.山鳴りの中,夜中雷の音一回,明け方雷の音一回,8時前に雷の音と電光あり.終日砂降る.
  八日 8時,やはり暗いので行灯をつけて朝食を食べた.砂が降り続く.12時ころ,山鳴りが少し止んだ.夜になって少し山鳴りがあったが,雨も砂降りも止んだ.

 五料河岸での記録 『利根川五料泥流被害実録』(五料河岸問屋 高橋清兵衛 IIIp.169)に詳しい.五料河岸は利根川と烏川の合流点で,伊勢崎の南西5kmに位置する.伊勢崎に比べると降灰分布軸よりになる.
七月五日 夜中,砂降る.
  六日 朝方降り出し,暮れ時に浅間鳴り激しい.雨はない.雷鳴砂降り.
  七日 12〜13時砂小降り,14時前に震動雷天おそろしく鳴り響き,真っ暗となる.行灯をつけて夕食を食べた.夜,なお震動雷天.
  八日 朝まで砂降り続き,15〜18cm積もった.6時ころ晴天になったが,8時ころまた暗くなり行灯をつけた.10時前になって天気になった.もはや震動も雷もない.12時前,少し震動がどろどろとあって利根川に大水が出た.

 本庄での記録 『天明度砂降記』(本庄宿 柳沢氏 IIIp.177)に詳しい.本庄は浅間山の東南東62kmに位置する.ちょうど降灰分布軸上にある.
七月五日 灰降る.
  六日 夜中にことごとく焼け出し震動強く,砂が3cmほど積もる.
  七日 朝より雷のごとく震動して砂降る.14時ころにわかに暗くなり闇となった.往来の人は提灯を使う.20時ころすこぶるに焼出し,ことことと震動して雷電が夜中じゅう鳴り渡った.雨はまったく降らなかった.
  八日 10時ころ明るくなって砂も止み,雷も静かになった.その日のうちに泥交じりの 火石が押し出してきた.
  十五〜十六日ころまで川原一円に焼煙たつ.

 江戸(東京)での記録 『浚明院殿御実紀』(Ip.369)に詳しいが,一部『甲子夜話』(IVp.296)に詳しい部分もある.『森山孝盛日記』(Ip.366)では,日に白い毛が降ったとしている.東京は浅間山から南東140kmに位置する.
七月六日 夕方,北西の方が雷のように鳴動した.  
  七日 空がほの暗く,風が吹いて甚だしく砂が降った.お昼過ぎ風が弱まり,砂も止んだ.夕方からまた震動して雨のように砂が降り,一晩中止まなかった.
  八日 10時ころでもまだ薄暗い.少し雨が降って,12時ころからようやく晴れてきた.砂はまだ少し降っている.14時過ぎから夜中までまた震動した.長さ30〜5cmの白や赤の毛が降った.
  九日 10時過ぎ,雨によって灰砂が止んだ.

 加賀(金沢)での記録 『加賀藩史料』(IVp.318)に詳しい.金沢は浅間山の西北西170kmに位置する.加賀藩は優秀な時計を備えていたので,鳴動地震の時刻はかなり正確であると思われる.七日の噴火では金沢でもかなり震動したことがわかる.また初めは浅間山の噴火と気付かず,九日になってやっと判明したという.
六月二十九日 11:00〜11:45(午三刻)雷鳴が止まない.12:45(午七刻)〜13:00(八刻)同様.
七月一日 14:00山鳴がある,昨日より弱い.
  二日 16:15(申五刻)〜夕暮れ,山鳴がある.戸障子が揺れ動いた.
  三日 2:00大鳴が強い.驚いて庭に飛び出した. 
  四日 なし
  五日 なし
  六日 4:00山鳴がする.15:00〜19:00,22:15(亥五刻)〜1:30(子六刻),山鳴り.
  七日 3:00から山鳴り強い.5:00から今までになく強い.8:00から少し弱く,11:00からまた強く,夕暮れにはますます強くなった.22:15(亥五刻)からことのほか強い.
  八日 0:30(子二刻)から弱くなったが,強いときは障子が外れるほどだった.3:00また強い.7:30(辰二刻)はなはだ強く,8:15(辰五刻)ことのほか強く,天地がひっくり返るかと思われた.その後静寂に向かい鳴動は止んだ.
  九日 断続的に鳴動するが,弱い.
  十日過ぎまで所々で鳴動.

 名古屋での記録 『さたなし草』『年號記』(武者,1943;p.731)に書かれている.名古屋は浅間山の南西210kmに位置する.七日になって,はじめて浅間山が噴火したことがわかったという(『さたなし草』).
六月二十九日 10時(?)ころ,北東の方向から雷や地震のように鳴動した.
七月一日 昨日と同様.
  二日 北東のほうで鳴り響く.しばらくして止む.一昨日より強い.
  三日 少し鳴る.
  六日 0時北東のほうが鳴動する.しばらくして止む.夕方より鳴動して20時ころから少し鳴り止む.夜半ころから強く鳴り響く.人々が騒ぐ.
  七日 一日中鳴り響く.夜になってますます強くなった.
  八日 一晩中鳴り響き,朝になってより強くなった.10時ころ大雷のように鳴り響いた.その後時々鳴ったが,24時ころまでには静かになった.

 京都での記録 『多忠職日記』(Ip.365)に詳しい.京都は浅間山の南西300kmに位置する.
七月八日12〜10時 地震のように戸襖がひびいた.
二十九日 七日の地震のようなものが,浅間山の噴火によることがわかった.

 降灰があった範囲はかなり広かったようである.関東地方だけでなく,北陸,東北,東海,中部にまで降っている(図2).

「焼出す煙上野・下野・陸奥・常陸・安房・下総国々へ棚引覆て石砂灰降.夫より東風に随ひ煙西へ向,東海道・西国へも八日午未刻灰降.相州石尊又奥州白河・日光抔へも灰降しと也.」
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.43

「信州,上州,相州,武州,越州,野州迄灰二,三寸より五,六寸程ノ白毛降ル.」
  『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.122

「 江戸表七月六日夕方より砂灰ふり,…….
越後国奥州辺迄之様子承候処越後国蒲原郡ハ先月廿八日昼時より砂降,別而奥州白河辺ハ昼時より夜まて降候而厚サ壱弐寸積り候よし申候段右宿之者申出候由ニ御座候.」
  『天明三同七天保四帳(抄)』 長島尉信 IVp.247

4. 吾妻火砕流
 吾妻火砕流は七月七日に流出した.これを記述していると思われる史料を以下に挙げる.
「   同 七日
山より熱湯湧出しおし下し,南木の御木見る内に皆燃へ尽す.」   『浅間大変覚書』 〔無量院住職〕 IIp.48

「七日ノ申ノ刻頃浅間より少シ押出シ,なぎの原えぬつと押しひろがり二リ四方斗り押しちらし止ル.」  
『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.123

「……山より北石とまりまで其日三度押し出し,」
『浅間焼出大変記』 大武山義珍 IIp.230

「扨七日にも鉢料より泥を北の麓古の石留まで推出すこと度々なれども……」
  『天明浅嶽砂降記』 常見一之 IIIp.27

 「南木の御木」とは浅間山北麓にあった幕府直轄地(巣鷹山,留山ともいう)を指し,「なぎの原」とは六里ヶ原を指す.これはいま見られる吾妻火砕流堆積物の分布とよく一致している.ここで押し出しとされた現象は吾妻火砕流が流出したことを指すと考えられる.
また「三度押し出し」(同書の異本では「再度押出し」とあるものもある)とあるが,これは火砕流の流出が複数回あったことを記録しているのだろう.
 吾妻火砕流の流出時刻に関しては,『浅間記(浅間山津波実記)』に午後四時に押し出したとある.この史料では,押し出しが複数あったとはしていない.吾妻火砕流の流出が複数回あったとすればそのうちの一つがこの時目撃されたということだろうか.
 「石留」あるいは「石とまり」とは,『天明浅嶽砂降記』(IIIp.25)によれば,「宇多院弘安四年六月廿九日巳ノ刻焼出し信州砂降り北の方へ麓迄泥おし出す.今に麓に石とまりと云所あり.」とあるが,弘安四年(1281年)の噴火の存在自体が疑問視されるから,その場所を特定することはむずかしい.
 吾妻火砕流流出後の様子を記述していると思われるものを以下に挙げる.
「一,……又其辺一里四方一面に硫黄押埋煙立事夥し.或は大地の割目有石を落し心みるに深サ壱丈五,六尺も有足の下とろとろと鳴,年を越ても道行人割たる穴にて莨□(“くさかんむり”に“宕”)呑付歩行.夫より西え行て方半里程,大木半より末斗残て有.是は御林焼折打折押出しなるものと見へしよし.」 
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.54

 同様の記述が,『信濃国浅間ケ嶽の記(抄)』
(IVp.133)にもある.
 吾妻火砕流堆積物は流出後,少なくとも半年間は煙草の火がつくほどの高温状態を保っていたことがわかる.幕府領の木々が火砕流によって蒸し焼きにされたという記述は,吾妻火砕流堆積物中に多数の樹型が見られることと符合する.当時の人々は火砕流の堆積物を硫黄と考えていたらしいことがうかがわれる.

5. 鎌原岩なだれ・熱雲・熱泥流
5.1 浅間北麓で発生したらしい岩なだれと熱雲
 最も激しい噴火が終息に向かい,八日午前八時過ぎには晴れ間が見え始めた.人々が安心したのもつかの間,午前十時に岩なだれが発生して鎌原村を襲った.この鎌原岩なだれの流出状況を示す史料を以下に挙げる.
「一,同八日朝より間もなく鳴神之如く,みな草木迄大風吹来ル如くニゆれわたり,神仏之石之塔ゆりくたき,人々心持悪しく,念仏諸仏神ニ祈誓し所に,四ツ半時分……第壱番の水崎ニくろ鬼と見得し物大地をうこかし,家の囲ひ,森其外何百年共なく年をへたる老木みな押くじき,砂音つなみ土を掃立,しんとふ雷電し,第弐の泥火石百丈余高く打あけ,青竜くれないの舌をまき,両眼日月のことし.一時斗闇之夜ニして火石之光りいかずち百万之ひゞき,天地崩るゝことく,火焔之ほのふそらをつきぬくはかり.田畑高面之場所右不残るたゞ一面之泥海之如し.何の畑境か是をしらんや.老若男女流死.」
  『浅間焼出大変記』 大武山義珍 IIp.230

「八日昼四ツ半時分少鳴音静なり.直に熱湯一度に水勢百丈余り山より湧出し原一面に押出し,……大方の様子は浅間湧出時々山の根頻りにひつしほひつしほと鳴りわちわちと言より黒煙一さんに鎌原の方へおし,」
  『浅間大変覚書』 〔無量院住職〕 IIp.48

「八日之四ツ時既ニ押出ス.浅間山煙り中ニ廿丈斗り之柱立てたるごとくまつくろなるもの吹出スと見るまもなく直ニ鎌原ノ方へぶつかへり,鎌原より横え三里余り押ひろがり,鎌原,小宿,大前,細久保四ヶ村一度づつと押はらい,」
  『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.123

「八日の辰の刻頃鉢料より石泥を数百軒高く吹揚柱の如く衝立テ[この日の巳の刻過東上州迄黒き泥ふりける]天も堕ち地も裂るゝ斗なるすさまじき音にて北の方へ倒れ,」
    『天明浅嶽砂降記』 常見一之 IIIp.27

「巳ノ刻頃沢々川霧の如く覆ひ,絶頂より沸出し,既に東南を覆ふと見へしが,何となく雲霧の中にざわざわと云音有り.……嶮岨の地成レば岩石に当て二タ筋に別れ,下押は鎌原江押出し,一ト筋は大前村江押出し夫より吾妻川江押入り死失の程勝計難し.」  
『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』 成風亭春道 IIIp.255

「一,……夫より泥三筋ニ分レ北西ノ方へ西窪ヲ押抜ケ是より逆水ニテ大前高ウシ両村ヲ押抜ケ中ノ筋ハ羽尾村へ押かけ,北東ノ方ハ小宿村ヲ推抜ク.羽尾小宿の間にて芦生田抜ル.」
  『砂降候以後之記録』 毛呂義郷 IIIp.141
同様のことが,『信州浅間山焼附泥押村々并絵図』(IIIp.124)にある.

 噴出の瞬間についての記述は様々である.噴出の高さを60m(廿丈斗り)としたものもあれば300m(百丈余)としたものもある.『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』には,泥流は「岩石に当て二タ筋に別れ」,一筋は鎌原へもう一筋は大前へ流れたとある.見る位置による違いからか,『砂降候以後之記録』では「三筋ニ分レ」と記述されている.この場合は,西窪から大前・羽尾・子宿から芦生田の,三つの流れに分けている.これは現在みられる鎌原岩なだれ堆積物の分布と一致する.
 『浅間焼出大変記』によれば,噴出は一度ではなく二度だという.最初の噴出では,大地が揺れ,家のかこいや老木がなぎ倒された.続いて泥や火石が300mの高さに噴出した.他の史料で注目されているのは,後半の噴出である.その前に何らかの現象が見られたようだ.これは,まず激しい地震動で山体の一部が崩壊して岩なだれが発生し,荷重を除去された地下の高温高圧部が続いて爆発して熱雲が発生したと解釈することが可能である.岩なだれの発生が強震によってひき金を引かれたという直接の記述はどの史料にもみつけることができないが,『浅間焼出大変記』引用文冒頭にある「八日朝より間もなく鳴神之如く,みな草木迄大風吹来ル如くニゆれわたり,神仏之石之塔ゆりくたき」という記述は,八日朝から地震が頻発していたことを言っていると解釈できる.
 この崩壊と爆発が起こったのが山頂であるのか山腹であるのか,『浅間焼出大変記』にははっきりと書いてない.著者である大武山義珍は吾妻郡吾妻町三島の浄清寺の修験者と思われる.自ら身辺に発生したこの変災をいち早く調査し資料を収集して一書を成したと推測される.しかし修験者であるためか神懸かり的な記述が多いのが欠点である.
 『浅間山大変覚書』にみられる生き生きとした鎌原岩なだれの流出の記述「ひつしほひつしほと鳴りわちわちと言より」は有名であるが,内容は文章として整っておらず,用語用字の誤りが多いうえに筆写の際の誤写も多い(萩原,1987).
 崩壊と爆発の発生源はどこであるのか.史料を詳しく読んでみよう.
「一,浅間ノ北ナダレニ谷地あり長□□も有ル谷地也.其北ニ松林アリ御林なり.大木ノ松アリ世間ニクロフト云.其北ハ鎌原ナリ.……七月初瀧原ノ者草刈ニ出テ谷地ヲ見候へハ谷地之泥二間斗涌あかり候.……然ル所七月八日昼四ツ前夥敷焼上リ火石を吹飛し谷地ニ落入谷地之泥涌上リ松林ヲ抜キ鎌原へ押懸ケ…….」
  『砂降候以後之記録』 毛呂義郷 IIIp.141

「神(鎌)原の用水ハ浅間の腰より来ル.七日晩流一円来す.村の長たる者不思議成事かな源を見んと八日の未明見に趣しに泥湧出つる事山の如し.」
     『浅間山大変実記』 蓉藤庵 IIp.201

「近年出湯有之湯谷より七八間拾間斗の大石押出し,」『浅間天明録(信陽浅間天明実記)』丸山虹波 IVp.174

「浅間山の梺の内川原湯祢津湯此両処湯あふれ出候.」  『天明三卯年浅間山焼砂降候大変之事』神宮某 IVp.202

 これらの史料は,浅間山の麓にある沼地(もしくは温泉)から泥が湧き出したと言っている.当時,浅間山の北麓に多数の沼地や湧水地があったことは絵図から知ることができる.たとえば柳井沼である(井上ほか,1994).しかしそこに温泉があったという史料は見つからない.浅間山の麓に温泉がたくさんあったという記述がいくつかの史料に見られるが,北麓かどうかまではわからない.しかし「近年出湯有之湯谷」(『浅間天明録(信陽浅間天明実記)』IVp.174)の出湯は,噴火後に大笹村に引かれた温泉のことを指していると考えることもできる.温泉は大笹村から南々東の方向に約6kmの所から湧いた.これは,沼地の存在する地域とほぼ一致する.
「今大焼にて大笹村より巳ノ方三千弐百間隔浅間山の腰へ新に熱湯を出せり.予午八月草津湯治戻り欠廻りて見るにもはや別所大師湯位ぬるく成し.五七年も過候ハヽ水の如く成へしと言う.」
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.54

 また八日の朝いきなり岩なだれが発生したわけではないようだ.「谷地」の泥が3.5mほども湧き上がるなど,七月はじめ(異本では六月とある)から前兆があったようである.この「谷地」とは柳井沼ではないだろうか.七日の夜,浅間山の麓から鎌原村に引かれている用水の水が涸れてしまい,八日になって見にいくと用水の源で山のように泥が湧いていたという(『浅間山大変実記』).その原因として,井上ほか(1994)が考えたように柳井沼直下にマグマが上昇してきたからかもしれないが,山頂火口からすでに北方へ流れ出していた鬼押出し溶岩によって加熱された可能性もある.いずれにしろ噴火活動によって浅間山北麓の水系に何らかの異変が生じていたと推測することができる.井上ほか(1994)は,萩原史料の解読と現地調査から,鎌原岩なだれの発生地点は柳井沼ではないかとつよく疑っている.
 草津から観察した次の史料と合わせて考えてみると,鎌原岩なだれの発生源は山頂噴火ではなくむしろ山腹噴火のようだ.
「……八日巳刻浅間北東へ向たる方焼抜,草津より見候処凡拾五六間程の穴に見へ,夫より高サ弐丈にも見へ,千曲河の幅程二筋ニ成泥押出し,…….」  
『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.43
同様のことが『浅間天明録(信陽浅間天明実記)』 (IVp.174)にもある.

「浅間山ノ麓大笹村ノ辺ヨリ山吹割,俄ニ熱鉄ノ如ク成ル出水仕,」
      『浅間山焼出記事(全)』 IVp.266

「一,其節北上州ノ方ヘ硫黄吹,中途ヨリフキ出シ,
            原田清右衛門御代官所 
              上州吾妻郡大笹村」
『浅間山焼出記事(全)』 IVp.28

「巳ノ刻頃沢々川霧の如く覆ひ,絶頂より沸出し,既に東南を覆ふと見へしが,何となく雲霧の中にざわざわと云音有り.爰に譬て云ば茶釜の口より熱泥溢レし如く,浅間山子丑の方焼崩れ,火石熱泥吹出し,其熱泥火石吹出す事何程といふ事を知らず.」  
『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』成風亭春道 IIIp.255

 草津温泉は浅間山の北方25kmにある.そこから見た記述によれば,七日朝十時浅間山の北斜面が「焼け抜け」,30mほどの穴の様に見え,千曲川ほどの川幅で二筋になって流れ下ったという.『浅間山焼出記事(全)』では,「浅間山ノ麓大笹村ノ辺ヨリ山吹割」とはっきり山腹噴火を主張している.しかし『天明雑変記』『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』には,「絶頂より沸出し」などのように山頂噴火を示唆する記述も見られる.ただしこれは鎌原岩なだれの記述ではないかもしれない.『浅間山焼に付見分覚書』には,山頂噴火であるのか山腹噴火であるのか確かめようとしたが,はっきりしたことは分からないと書いてある.
「一,浅間絶頂ニ有之俗ニ御鉢と唱へ候所より涌こほれ候儀ニも可有御座,又は中ふくより吹破候とも申候.何れとも取〆り候儀も無之,」
  『浅間山焼に付見分覚書』 根岸九郎左衛門 IIp.333
 
現地を調査すると,長野原町営の火山博物館付近にガラス質の砂礫からなる厚さ50〜200cmのプレー式熱雲堆積物を確認することができる.『浅間焼出大変記』にある「第弐の泥火石百丈余高く打あけ,青竜くれないの舌をまき,両眼日月のことし」はこの噴火を記述したものではなかろうか.民営の鬼押出し園へいくと,この堆積物の厚さは10cmに減少するから,火山博物館付近でこの堆積物を残した爆発が発生したと考えるのが適当である.すでに流れ出していた鬼押出し溶岩流の内部の高温高圧部が,北側山腹の部分崩壊による急激な減圧をきっかけとして爆発した疑いがつよい(早川,1995).このことは7章で再び議論する.なお,吾妻火砕流はこの付近を覆っていないので,その堆積物がこの爆発を起こしたとは考えられない.

5.2 吾妻川・利根川を下った熱泥流
 鎌原岩なだれは浅間山麓を下り吾妻川に流れ込んだ.大量の河川水を取り込んだ岩なだれは熱い泥流となって流れ下った.これを鎌原熱泥流とよぶ.鎌原熱泥流は吾妻川をどのように流れ下ったのだろうか.
「川原湯は河よりも余ほどへだゝり両岸にてのぞき見るほど深き処なりしが,大木にて川をせき留め泥押あげしとなり.」
  『浅間燒見聞実記』 横田重秀 IIIp.293

「四ツ時頃長野原村追通り九ツ時頃伊勢町うら追通り,…….一ノ浪二番ノ浪三番ノ浪押出シ通り候なり.翌朝江戸行とくへ押出シ死人山ノゴトシと云.」  
『〔天明浅間山焼見聞覚書〕』 IIp.157

「則八日之四ツ時…….然処ニどろどろ押出ス.其をときもへひゞき大地ハゆれわたり今大地えめりこむかと思ふ所え川上より煙立満水押来ル.直ニ河戸ノ田のぼより善導寺さうもん根迄一めんニ成り火石流失ス.其上ニ五丈斗りくろく大山押出ス.山か波か二目と見たる人もなし.」
  『浅間記(浅間山津波実記)』 富沢久兵衛 IIp.123

「いつくよりか大なる山を木の生繁りたる侭にて推抜き推抜き流し来たり,利根吾妻落合の少し下の川中に止りしが後より推来る泥川筋を塞れて利根川の川上樽村のとうか淵ト謂へる所迄□(さかのぼる:“さんずい”に“云”)る.とうか淵へは巳の中刻過泥来りしと.其時此所に子家程なる火石をおしあげ置く.其外所々の川々へさかのぼりしが,中にも,吾妻川の中程へおつる,ぬる川と云へるは,五十町程泥さかのぼりしといへり.流水は逆に衝かれ湛へて又とうか淵より四十丁斗上迄洪水す.」
    『天明浅嶽砂降記』 常見一之 IIIp.28

 吾妻川には,“吾妻渓谷”と呼ばれる両岸に切り立った絶壁が迫っている箇所がある.そこを鎌原熱泥流が流下する際に,川原湯付近で堰上げが起こったらしい(図3).そして吾妻川下流の村々には三回くらいに分けて泥流が襲った.原町では午前十時に第一波が押し寄せている.また支流では,泥流が逆流して溯り,洪水が発生した.とくに温川では5kmも逆流したという.
 吾妻川は渋川で利根川と合流する.鎌原熱泥流は利根川も逆流して,4km溯っている.鎌原熱泥流の勢いは利根川に入っても衰えず,さらに下っていった.以下に利根川に入ってからの鎌原熱泥流を示す史料を挙げる.
「斯て広瀬川も二里程桃木川も三十町余り埋り左右の村へも盪し開く.」                
 『天明浅嶽砂降記』 常見一之 IIIp.28

「下那波郡の辺よりは却て渇水となる.……泥真黒に推来れば皆漸々に逃去ぬ.……
 然して上流は泥にてさゝへられ湛へし水泥も上を越し来りて塵も不残推流す.又夫より上那波郡にては其水五料も関所北より矢川を突抜け五料の下にては三分川へ推抜けて烏川へ落行きし故,……」
    『天明浅嶽砂降記』 常見一之 IIIp.29

「八日の昼八ツ時分利根川ノ水音夥敷致候.……早速水引却て川水も無キ様ニ成候所,暮前に至り泥山の如クニ押来リ此時材木屋道具死人夥敷流来候.此時ハ泥湯ノ如クニ涌キ大石ノ火ノ燃ヘ出ルヲ押来候由.」
『天明三年七月砂降候以後之記録』毛呂義卿 IIIp.139
  
「一,利根川より三分川へ泥分れ押行烏川みとも川合河岸まで泥逆ニ上り,是も床上迄上り候.」
 『天明三年七月砂降候以後之記録』毛呂義卿 IIIp.141

「一,芝抔ハ八ツ時分より泥来り候.靱負河岸ノ東三分川へ押抜下福島八斗島あたりは七分川埋り候.平塚抔八日ノ暮前過泥来り其跡は川ニ一向水無之様ニ相成候申ハ,此時三分川へ抜利根川埋候□□三分川より烏川は抜候間しはらく利根川ハ水無之様ニ成候由.」
 『天明三年七月砂降候以後之記録』毛呂義卿 IIIp.144
 
利根川に入った鎌原熱泥流は,支流の広瀬川・桃木川へも流れ込んだ.さらに下って,五料河岸あたりには午後二時ころに至ったようだ.この時七分川への流入口が埋まり塞がってしまっていた.このため一時的に川水が堰止められたが,夕方には決壊して多量の土砂がそこへ流れ込んだ.泥流は通常の三分川の流路ばかりでなく,五料より上流にある矢川を抜けて烏川へ流れ込んだ.烏川でも三友・川合河岸まで泥流が逆流している.
 最終的には,九日の午前十時ころ銚子へ,午後二時ころに江戸へ到達した.
「中村の者弐人河原嶋村の者八人八日ハ四ツ時流失,九日の四ツ時には下総国行徳浜迄流行……」
       『浅間嶽大焼泥押次第』 IIp.299

「昨九日八ツ時頃より江戸川水泥之様に相成,…….夜五ツ時過に相成流物相減申候.夫より流止み候.右之通東葛西領金町村名主勘蔵訴出申候.
  七月十日                                 伊奈半左衛門 」
  『浅間山焼記録』 IIp.326
 
 次は鎌原岩なだれの噴出直後の記述と思われるものである.
「一,鎌原村押出しの跡焼三里の内に満たり.又西に至りて一里斗は大石降落る体にて立臼障子のことし,筑山に異ならす.弐拾間三拾間の石数万に及ふ.中に一ケ離れて大石有,惣回り五百八十足,但し五拾間四方に及ふ.大音にて呼けるに陰なる人漸く蚊の声のことくに聞へしと也.又赤岩或いは軽石の所もあり.大石の上に雨降は煙立登る.」
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.54

 これによれば,35〜55mほどの岩が無数に見られたという.それらの岩の中には赤岩や軽石があったという.この赤岩というのは現在見られる赤いアグルチネート岩塊のことであろう.軽石というのはパン皮岩塊のことかもしれない.

6. 浅間山南麓での出来事
 これまで南麓では降下軽石による被害ばかりが注目されてきたが,史料にはそれ以外にもいくつか事件があったことが書かれている.

6.1 金沼村の陥没?
 金沼村という場所で七月四日午前八時に大規模な陥没が起こったらしい.金沼村について正確な位置は今のところわからない.以下にこれに関する史料を挙げる.
「天明三卯七月
 信州浅間山焼候ニ付所々御届書之留……
  御勘定所へ御届
一,表弐番町高千石御子納戸伊丹雅楽之助様御知行同所金沼村より追分之方江壱里横幅弐拾八丁余七月四日之朝五時雷□□□致し落入申候.其跡より煙立登り夥敷故驚キ廻村弐十三ケ村立退,作物ハ勿論竹木共に不残枯申候.」
  『天明三同七天保四帳(抄)』 長島尉信 IVp.248

「一,御納戸伊丹雅楽之助知行所信州佐久郡今沼(金沢)村より追分之方江一里半横幅二十八町余之所,七月四日朝五ツ時頃雷之音いたし,地面崩れ落入申候.其跡より煙立登り夥敷御座候故,近村々驚き二十三ケ村迯去り申候.作物并竹木も枯申し候.」
          『浅間山焼記録』 IIp.329

「  十八日堀越亮泉持参書付左之通
 信州浅間山六月廿八日殊之外荒候て煙夥く立登,大石焼出し,近村一里程之内作 物不残損申候.
一,表三番伊丹雅楽之助知行所金沢(沼)村より追分之方へ一里半,横幅廿八町余,七月四日朝五時雷の如く音致候て地へ落入申候.其跡より煙立候事夥しく,余り不思議の事故其近村数二十三ケ村立退申候.作物は勿論竹木不残損申候.落入村数四十三ケ村,死候牛馬数不知.飛候石にて打潰候家数百七十五軒,男女死候数不知.右之趣雅楽助知行所金沢(沼)村より六日九時注進申来候.」
  『甲子夜話(巻四十)』 松浦静山 IVp.298
『甲子夜話(巻四十)』と同様の記録は,『秋の友(抄)』(IVp.336),『浅間山大変略記』(IVp.285),『浅間山昇之記』(IVp.97)にも見られる.

 これらの史料は,七月四日午前八時,伊丹雅楽之助の知行地である金沼村から追分の方に6kmのところで,幅300mにわたって陥没が起こったといっている.この陥没の跡からは黒煙が上がった.そのため近くの二十三村の人々は逃げ,周辺の植物は皆枯れてしまった.
 『甲子夜話』では被害村数を四十三としており,鎌原岩なだれによる被害村数と同じである.『甲子夜話』の記述は『浅間山焼記録』と大変よくにている.『浅間山焼記録』では,鎌原岩なだれについての記述のすぐ後にそれとは別の事件として,金沼村の事件が書かれている.これを,『甲子夜話』に書き写す際に同一の事件として扱われてしまったのではないか.少なくとも,注進書を直に引用したと思われる史料(『天明三同七天保四帳(抄)』,『浅間山焼記録』)にそのような混同はないようだ.
 『浅間山焼記録』によると金沼村は伊丹雅楽之助の知行地で浅間山麓の信州側(南側)にあったという.しかし,『群馬縣史 第二巻』(群馬縣教育會,1927)によれば,伊丹雅楽之助は幕府の旗本で現在の群馬県吾妻郡に知行地をもっていたことがわかる.『長野県史』(長野県,1989)や井出ほか(1989)を調べたが,現在の北佐久郡のあたりは大部分が幕府の直轄領もしくは小諸藩領で,わずかに旗本領があるだけである.その中に伊丹雅楽之助の知行地は見つけられず,信州に知行地を持っていたという資料も見つけられなかった.金沼村は上州側の村と考えた方がいいのではないだろうか.
 気になる史料がひとつあるので下に挙げておく.これは鎌原岩なだれの発生場所として挙げられているものである.被害状況等も鎌原岩なだれのものを表していると考えていいように思う.あるいは金沼村の陥没と鎌原岩なだれの事件を混同したものかもしれないが,「池の内より泥水吹き出し」ということを信用するならば,金沼村は上州にあった(鎌原の近く?)と考えられるのではないだろうか.ちなみに鎌原村は幕府の直轄領で当時の代官は原田清右衛門である.
「金沢(沼)村追分方南へ壱里ほと巾三拾八間ほと池の内より泥水吹き出し,都合村数四拾三ケ所失ひ,其外家数百七十軒ほと是も相見不申,人馬夥敷死.」  
『秋之友(抄)』 新美清太夫正倫 IVp.341

 金沼村の陥没は,鎌原岩なだれのことを伝えていると考えることも可能である.金沼村が信州側でなく上州側にあって,発生した日「八日」を「四日」と誤ったと考えれば,つじつまはあう.
 金沼村は信州側,上州側どちらににあったのか,金沼村は鎌原村のことなのか,あるいは鎌原村の近くにあった別の村なのか,これらの史料からだけでははっきりしたことはいえない.

6.2 沓掛に流れた泥流
 七月七日に沓掛(中軽井沢)に泥流が発生したことがわかった.これに関連した史料を以下に挙げる.
「先日(七日)越候跡ニテ泥水山ヨリ押出シ家モ余程流申候.……七日夕方頃ヨリ熱湯押来リ,家居余程流出イタシ,川水ト心得踏込候テ足ヲ焼怪我イタシ候者多ク有之候ヨシ申聞候.」       『浅間山焼出記事』 IVp.265

「(七日に)沓掛東の湯川と唱,小さき焼石流れて水を乱す.」     『天明信上変異記』 井出貝川 IVp.19

「浅間山東谷より出て沓掛の宿詰へ流るゝ湯川と云ふあり.七夕の朝より雨降らずして俄に洪水濁る事丹の如く又津波の如く四五尺も高く押来り跡は潟となる.其間々々を見合渡る.……廿日過まで日々に同じ.其の少し先軽井沢手前道より北に放れ山といふあり.……却て山腰通り出水の小川数々何れも晴にて七夕朝より洪水赤泥押流せり.」
『信濃国浅間ケ嶽の記(抄)』時々庵丸山柯則 IVp.133

「七月上旬より八月中旬まで日々曇雨多く,川々出水度々,中にも信州湯川筋今度降砂石にて水を堤ちたゝへては押流々々本瀬定る事なく,九月中川辺日々破損ス.殊に田地えかかる石夥敷数流れ入湯川懸り難儀せり.其水上小浅間の腰谷合より出,沓掛宿の東入口ニ流.七月八日ハ川幅廿間程に成,車屋壱軒流失,茶屋床下へ水入住居ならす.」
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.51

 七日夕方雨も降らないのに湯川を熱泥流が流れ下った.泥水は段波として1.5mほどの高さで押し寄せ,家を押し流し,その後は潟になったという.ただの水だと思って火傷を負った人もいた.八日からは降雨の影響もあり,毎日のように洪水が押し寄せ田畑を覆った.八日は,川幅が35mほどにもなって,車屋が一軒流れ茶屋が床下浸水した.洪水は七月中頃まで断続的に続いた.その後も雨が降る度に洪水は発生した.
 七日夕方湯川を流れ下った熱泥流は,降下軽石が不安定であったために斜面崩壊が起こって発生した.この時軽石がまだ高温であったので川の水が熱せられ熱い泥流となった.その後八日からは降雨のたびに軽石が流されて泥流となった.これらの泥流をまとめて沓掛泥流と呼ぶことにする(図4).同じような現象は浅間山麓各地(『浅間山焼に付見分覚書』IIp.347)・離山の東半分(『信濃国浅間ケ嶽の記(抄)』IVp.133)でも見られた.軽井沢の南を流れる泥川でも泥流が発生したようだ.

「……軽井沢より一里半程行と泥川と言有,此頃(七日)日々に水かさ増り,闇夜に浅瀬も知されば押合込合落入て財宝を流しける事夥し.」
   『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.37

「夫より壱里遠く発地村江心かけしに此間に土路川と云小河あり,其節浅間より石砂山入之谷々川江降ル.溜リテ水道を一度になし川下へ流レ今浅シと思ふ川瀬忽ち深クなり,此間之川大川となる.」       
   『浅間大焼無二物語』 IVp.151

 沓掛泥流はどこから流れ出たのだろうか.湯川支流にある千ケ滝は降下物によって,15〜18mあった落差が6mもないほどになってしまったという.「一,又山の腰辰巳の方谷合五,六丈上より落る水有,是を千が瀧と唱ふ.然るに降たる石峯より転る砂石にて弐丈に足らさる瀧と埋て水筋を失ふ.」
   『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.42
同様のことが,『信濃国浅間ケ嶽の記(抄)』(IVp.134)にある.

 千ケ滝のすぐ下流に,天明軽石とクロボクが雑然とまじりあった地層が天明軽石上半部に覆われている露頭がある(図4の地点1).天明軽石下半部の大部分は七月五日〜七日に,天明軽石上半部は七月七日夜間に堆積したので,上半部だけに覆われたこの地層は天明三年七月七日午後にこの付近で大規模な斜面崩壊が起こったことを示している.下流へ1kmいくと,天明軽石まじりの泥流堆積物を確認することができる(地点2).さらに中軽井沢駅の北400mの湯川の河床(地点3)では溶岩塊と天明軽石を含んだ泥流堆積物が認められる.
 湯川本流の水系と千ケ滝支流の水系とにわけ(図5),それぞれの流域における降下軽石の平均層厚を求めた(表1).この結果,平均層厚は千ケ滝支流が1.66m,本流が0.81mであることがわかった.また千ケ滝支流側では,沢の最高点から湯川との合流点までの標高差1200mを約8kmで下る.湯川本流川では,おおむね約700mの標高差を7〜10kmで下る.千ケ滝支流側のほうが約2倍傾斜が急である.その分,降下軽石に新しく覆われた斜面が不安定だったといえるだろう.

 以上のことから,七月七日夕方の沓掛泥流は湯川の千ケ滝支流側から発生したと思われる.また「其水上小浅間の腰谷合より出,沓掛宿の東入口ニ流.」(『天明雑変記』)の記述は,泥流が千ケ滝支流側から流れたことを書き残していると解釈することが可能である.その後の降雨によって発生した泥流については湯川本流からのものもあっただろう.
 泥流によって,沓掛や軽井沢では橋が流されたり用水が埋まったりした.軽井沢の用水はもちろん降下軽石でも埋まった.湯川下流や濁川でも用水の埋まる被害が出ている.噴火後これらの普請(復旧工事)が行われた.以下にこれについての史料を挙げる.
「(軽井沢宿)十一日の夜は大水にて山に沢に積り候石砂押出し既に宿方危く,往還二手の橋流失仕り水の涌切れ候音と山鳴り少しも止まず,」
         『浅間山大変日記』 IIp.245

「沓掛入口土橋往還筋ニ掛渡有之所浅間大焼後度々出水有之土橋流失致し候.此土橋雲場の橋と唱へ申候.……
 一,……油井村の儀は湯川通り川附村ニて川添之田地損地出来致候.
 一,……右堰下字西池と申所より用水路埋場御普請の積り村方相願候.
 一,……濁川用水,水元は浅間山半腹字血の池.浅間大荒の節火石ニて押埋候ニ付用水差支に相成候故浚御普請村役人相願申候.
 一,……落合村の儀は,……小山掘抜長弐百間の所土中用水引来候所,浅間山大焼以後度々満水ニて右掘抜の中え火石流込押埋,用水差支ニ付用水御普請相願候旨村方の者申之候.」
  『浅間山焼に付見分覚書』 根岸九郎左衛門 IIp.347

 沓掛泥流を書いた史料は数が少ないから,被害の実態についてはあまりはっきりしたことがわからない.泥流発生時にはもうほとんどの人々がすでに逃げ出してしまっていたからではないだろうか.八日以後,洪水は四度起こり村人は五度逃げ出していることから,噴火後大きな洪水が発生しそうになると早々に村人は避難したと考えられる.そのため被害の状況がはっきりとしないのだろう.これに関する注進書が代官所に届けられたと『信州浅間山焼并吾妻山津浪書』にあるが,その史料はまだ見つかっていない.
 「八日より出水四度,迯出でけるは五度也.」
  『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.51

「其上八日より雨天にて十日別て車軸の様成雨ふり,浅間近所の山より泥水押出し,焼石やけ砂流れ出,田畑川々へ石砂入等夥敷出来,追々注進くしの歯を引がごとく,日々村々より申出候.
               七月十八日 中川専蔵」      『信州浅間山焼并吾妻山津浪書』 IVp.170

 またこの沓掛での事件と鎌原での事件とを混同したと思われる史料がいくつか見られる.以下にそういった史料を挙げる.
「俄に湯とろヲ押出し,震動雷電大山ヲ推出したる如ニて湯川の方へ押出にすべし.」
     『浅間大変実記』 古籏玉寶 IVp.185

「初は山の頂上より砂火石を吹出し,其後山の越なる大内沢小浅間より火水石吹出し,」
  『信州浅間山上州石砂之大変』 阿部玄喜 IVp.218

 鎌原熱泥流の発生地を温泉とした『浅間天明録(信陽浅間天明実記)』(IVp.174)『天明三卯年浅間山焼砂降候大変之事』(IVp.202)の記述は,あるいは沓掛の泥流と混同しているのかもしれない.沓掛を流れている川は,湯川であり,この近くには現在温泉がいくつかある.

7.鬼押出し溶岩流
 七月八日以降に関しては噴火に関しての記述が減り,鬼押出し溶岩流の流出を思わせるような記述は見当たらない.ただ,少なくとも七月十五日には溶岩流が存在していたらしい記述がある.
「七月十五日……,其状似注子觜而溶流痕在,他不見崩□(“こざとへん”に“也”)之処.」
     『癸卯災異記』 川野辺 寛 IIIp.214

 鬼押出し溶岩流が流出したのは鎌原岩なだれの後であると考えられてきた(荒牧,1993).しかし,この見解は再検討される必要がある.鎌原岩なだれを構成する初生物質には,1)巨大な赤いアグルチネート岩塊,2)巨大なパン皮岩塊,3)急冷されてガラス光沢をもつ火山砂礫,の三種類がある.火山博物館遊歩道の終点近くの鬼押出し橋手前付近では,鬼押出し溶岩の表面に巨大なアグルチネート岩塊を多数確認することができる.これは鬼押出し溶岩が火口から流出しているとき,同時に火口の上に噴煙柱が立っていたことの証拠である.鎌原岩なだれ堆積物の中にはこれとまったく同じように見える岩塊がみつかるから,すでに述べたように,鎌原熱雲は鬼押出し溶岩流から生じた二次爆発で生じた可能性が生まれる.
 八日以前の記述の中に鬼押出し溶岩の流出を書いているものがないか見直してみよう.
「泥塗沸騰者自七月六日至八日凡三.其二涌者溶流不過二里,至三大沸騰,直落□(“山へん”に“解")澗,山壑随而崩□(“こざとへん”に“也”)奔突入吾嬬川.」
      『癸卯災異記』川野辺 寛 IIIp.214

 この記述から,三番目に鎌原岩なだれが流れ,その前に二つの流れがあったことが分かる.この二つの流れは何であるのか.「其二涌者」というのは「大沸騰」と比較して,かなり穏やかな流出であった印象を受ける.「涌」とは「湧き出す」といったような意味をもっている.あまり激しい勢いで流出したようには感じられない.また「不過二里」とあり,8kmを越えない流れだった.これを実際の堆積物と比較したとき,火口から先端まで吾妻火砕流は約8km,鬼押出し溶岩流は約6kmである.この二つの流れを吾妻火砕流と鬼押出し溶岩流と考えることはできないだろうか.ただし,この二つの流れがともに吾妻火砕流をさしている可能性は否定しきれない.『癸卯災異記』は,高崎藩儒である川野辺寛が藩命によって記したものである.見聞記などの諸情報を収集し,その一つ一つについて検討し,可能な限り正確を期す態度をとったと本文中で述べている.

「八日之四ツ時既ニ押出ス.浅間山煙り中ニ廿丈斗り之柱立たるごとくまつくろなるもの吹出スと見るまもなく直ニ鎌原ノ方へぶつかり,」
   『浅間記(浅間山津波実記)』富沢久兵衛 IIp.123

 この「既ニ押出ス」という記述を,鎌原岩なだれの発生前に鬼押出溶岩流が既に流れ出ていたと解釈することができないだろうか.『浅間記(浅間山津波実記)』は富沢久兵衛(本名清胤)の手記であり,本人が直接見聞した記録を浄書編纂したものである.

「川霧の如く幅一里程高く弐拾丈にも見へ,浅間山より川筋につづき,至て鳴動す.八日薄曇雨の気無之.満水とは誰不知只浅間の煙落しならんと思ひ罷在候.其時硫黄水火石泥熱湯釜の金輪よりどつと焼出す勢ひたとへるにものなし.」   『天明雑変記』 佐藤雄右衛門将信 IVp.43

「巳ノ刻頃沢々川霧の如く覆ひ,絶頂より沸出し,既に東南を覆ふと見へしが,何となく雲霧の中にざわざわと云音有り.爰に譬て云ば茶釜の口より熱泥溢レし如く,浅間山子丑の方焼崩れ,火石熱泥吹出し,其熱泥火石吹出す事何程といふ事を知らず.」  
『信濃国浅間嶽焼荒記(浅間嶽焼記)』成風亭春道 IIIp.255
同様の文章が,『信州浅間山焼附泥押村々并絵図』(IIIp.124)にもある.

 これら二つの記述全体が鎌原岩なだれの噴出を記述したものとして解釈することもできるが,それぞれの前半部と後半部にわけてもう一度考えてみよう.後半部は明らかに鎌原岩なだれの流出を表しているが,前半部の,「絶頂より沸出し」「川霧の如く」見えたものは,すでに流れ出していた鬼押出し溶岩流を描写しているとよむこともできる.溶岩から立ちのぼる水蒸気や熱が,霧や陽炎のように見えたのかもしれない.『天明雑変記』の筆者は現在長野県佐久市香坂の素封家である佐藤雄右衛門将信である.未曾有の噴火にあたり,自らの見聞と諸書を漁って一々出典を明らかにする学問的態度で書かれている.それだけに単なる風説を興味本位に書き留めたものでなく,つとめて正確を期して後世に伝えようとした真摯な態度をみることができる.『信濃国浅間嶽焼荒記』は,災変後しばらく経って筆稿したものらしい.被災戸数・人数を誇張して書いている.また伝聞風聞などを興味本位で確認しないまま記載しており,信頼度は低い.『天明雑変記』の影響を強く受けていると思われるところも多い.

8. まとめ
 以上の考察の結果,天明三年の噴火の推移は次のようだったと私たちは考える(表2).
 旧暦四月八日(太陽暦5月8日)最初の噴火が起こった.46日間の静穏の後,五月二十六,二十七日に噴火があって,諸国に灰が降った.再び18日間の静穏の後,六月十八日に北東方向に降灰した.さらに6日間の静穏の後,二十六日から本格的な噴火がはじまった.七月三日,四日は静穏期だったが,五日の昼からプリニー式噴火がはじまった.降下軽石の下半部はこの後約40時間の噴火堆積物である.七日の夕方吾妻火砕流が三度くらい流出した.降下軽石下半部に挟まれる3枚のピンク色シルト層はこの火砕流から空高く上昇したサーマル雲から降下した火山灰であろう.同じころ南麓の沓掛では熱泥流が発生した.七日夜から八日朝までがプリニー式噴火のクライマックスだった.降下軽石上半部がその堆積物である.このとき軽井沢では,降下軽石によって火災が多数発生した.八日午前8時に噴煙柱がすこし盛り返したが,その後まもなく山頂火口からのマグマ放出はほとんど終了した.鬼押出し溶岩流は,少なくとも,プリニー式噴火のクライマックスには北へ向かって流れ下っていた.午前10時ころ,おそらく強い地震動によって,北側山腹の一部が崩壊して鎌原岩なだれが発生した.この崩壊が鬼押出し溶岩流内部の高温高圧部を急激に減圧させて熱雲が発生した.鎌原村を埋没させた岩なだれは吾妻川に流れ込んで熱泥流となった.昼ころ上州では黒い泥雨が降った.夕方には,軽井沢や坂本で泥が降った.鬼押出し溶岩流の前進はもうしばらく続いた.その後七月十八日ころにも噴火があり,山頂火口では九月ころまで何らかの活動が続いたらしい.

謝辞 浅間火山博物館の村井 勇館長には調査の便を計っていただきました.井上公夫さんと山川克巳さんには,貴重な資料を見せていただき,また有益なコメントをいただきました.

文献