3.利根川

合流点

「利根川の川上樽村のとうか渕と謂へる所迄■(さかのぼる).とうか渕へは巳の中刻過泥来たりしと」『天明浅嶽砂降記』


渋川市〜前橋市

利根川合流点の2.5キロメートル下流の渋川市中村では,熱泥流堆積物の下から水田や畑がみつかった(中村遺跡).実が入った大豆が青々としたまま出土したが,それらは見るまに酸化して茶色くなった.いま関越自動車道の渋川伊香保インターチェンジがつくられている場所にあたる.

前橋市川原町は,利根川左岸にある比高3メートルほどの旧中洲の上につくられている町である.中洲の断面を見ると,円礫層の上に,6世紀の二ツ岳軽石を含む厚さ30センチメートルほどの砂層があり,その上を鎌原熱泥流の堆積物が厚さ1メートルほどで覆っていることがわかる.中洲の上に熱泥流の堆積物があることは,その両脇の旧河道をも熱泥流が勢いよく流れたと考えざるを得ない.旧河道に堆積した土砂はその後数年間の川の流れでほとんど浸食されてしまったのだろう.

ここに隣接する田口村・関根村・荒牧村での災害は「田畑泥入」だけであり,家屋の流出や死者の記録はほとんどの古記録にない*.また,その記録の中に川原村という文字をみつけることはできない.川原町は,天明三年の熱泥流の堆積物が残した耕地の上に新しくつくられた集落ではなかろうか.

いや,河原嶋村という利根川の中の村がある.

*ただし,伊勢崎藩の常見一之が著した『天明浅嶽砂降記』には,関根村の被害は「田畑人家半分泥入流死四五人」とある.4,5人が犠牲になったのかもしれない.


玉村町〜千代田町

玉村「泥の深き所軒より高く埋もれぬ」『天明浅嶽砂降記』

前橋台地を細く切り裂いて流れ進んだ利根川は,烏川合流点で関東平野に出る.そこで川幅を大きく広げ,流速を弱める.利根川と烏川に挟まれた玉村町五料には当時関所があった.そこでの記録として,「八日昼時前利根川俄に水干落岡と成,魚砂間に躍る....」そのあと押してきて,「皆人泥水に溺れ流失す」『信州浅間山焼附泥押村々■絵図』とある.

広瀬川合流点に近い尾島町世良田でも同様に,まず水が引いた.

五料の対岸すなわち利根川左岸の伊勢崎市戸谷塚ふきんには,700人あまりの遺体が流れ着いたという.天明四年十一月に建てられた地蔵碑と,百八十回忌の昭和三十七年(1962年)に嬬恋村・長野原町・戸谷塚町の人によって建てられた供養碑がある.

本庄市と伊勢崎市を結ぶ国道462号にかかる坂東大橋から下流側の河原を見ると,鎌原熱泥流が運んだ直径1メートルほどのたくさんの黒岩が散在するのがわかる.鎌原石独特の,本のページを重ねてよじったような断面をもつ岩が多い.10個にひとつ程度みられる赤岩は,前橋台地をつくる2万4000年前の岩なだれ堆積物から洗い出されたものだろう.

「天明三卯年 施主 ▼為水死男女菩提也 ▼七月八日 村中」と書かれた供養碑が千代田町舞木の円福寺境内にある.近くの神社の境内や畑の隅で,鎌原石をたくさん見ることができる.


江戸

渋川中村の人と河原嶋の人が行徳まで流れ着いて,助かって,生きて帰ったという.想像するに,流れに浮遊する建築材などの上にのって運ばれた人の中にそのような幸運に恵まれた人がいたのだろう.

「渋川下中村ノ人廿四五位ノ人三人行とく迄流レ生テ帰り,三人ノ云口,ゆめようニて一切覚えもなしと云」(『天明浅間山焼見聞覚書』;萩原史料2-157)