史料に書かれた浅間山の噴火と災害

早川由紀夫・中島秀子

abstract

1.はじめに

 火山はそれぞれ固有のくせをもっている.火山災害を防いだり軽減するためには,評価対象となる火山で過去に起こった災害実績を正しく把握することが基本となる.浅間山は日本の代表的活火山のひとつであり,その噴火と災害を書いた史料は多数ある.とくに,1400人余の死者を出した1783年の噴火災害の記録は大量にあり,地元では「天明三年の浅間押し」伝承がいまも語り継がれている.

 浅間山の噴火記録は,これまで小鹿島(1893)・大森(1918)・武者(1941)・村山(1989)らによって研究された.しかしこれらの研究はどれも,史料の記述を批判的に読むというスタンスから遠い.史料の記述を鵜呑みにしてそれを事実として扱っているものもある.史料を書いたのは生身の人間だから,書かれていることすべてが事実であるという保証はない.筆者の過誤もあるだろうし,意図的な情報操作もあろう.また,転記の際のミスもあるかもしれない.

 私たちは,史料に書かれた浅間山の噴火と災害の歴史を正しく理解するために史料原文にあたり,噴火と記録の同時代性,史料が執筆された場所,などに留意して,それらを批判的に読んだ.ただし,原文献が入手困難ないくつかの史料については武者史料(武者,1941)に引用されたものを読むにとどめた.

 史料記述の真偽を確かめる手段のひとつとして私たちは噴火堆積物を積極的に用いた.地震史料の場合も野外の断層変位や液状化跡によって史料記述の信憑性を確かめることができるが,噴火堆積物からは噴火のダイナミクス・規模・強度・年代・推移など格段に豊富な情報が解読できる(早川,1990).史料を批判的に読むときの試金石として噴火堆積物はたいへん有効である.

 ただし,明治以降の噴火災害はどれも強い爆発によるものだが規模が小さいために,個々の爆発による堆積物を特定することができない.これらについては,気象庁(1991)のまとめを当時の新聞記事および気象庁が明治以来毎月発行している「気象要覧」によって確認する作業を行った.

 史料中の年月日を和暦から西暦へ換算する際には,早川・小山(1997)の勧告に沿って,1582年以前はユリウス暦へ,それ以降は現行のグレゴリオ暦へ換算した(Table 1).

2.江戸時代以前の噴火

 13世紀までは,浅間山の噴火について書いたのではないかと疑われるすべての史料を取り上げる.14世紀以降は,注目すべき噴火または議論の余地がある史料のみを取り上げる.

 685年(天武天皇十四年)

 『日本書紀』に,「十四年春・・・三月・・・是月灰零於信濃国草木皆枯焉」とある.この降灰記事は,小鹿島 果(おがしま はたす)(1893)によって「天武天皇十三年三月,信濃浅間山噴火,雨灰草木皆枯(日本書紀)」と紹介された.つまり,彼は原文には書かれていない「浅間山」という三文字をそこに挿入したのである.信濃国(いまの長野県)にこの降灰をもたらした火山が浅間山である可能性はもちろん否定できない.しかし,草木を枯らすほどの顕著な降灰はおそらく高い噴煙柱が立ったことを意味するだろうから,浅間山から噴火したのならその灰は早春のつよい西風に吹かれて信濃国ではなく上野国(いまの群馬県)により多く降ったはずである.主に信濃国に降灰がみられたのであれば,その給源火山はより西方に求めるほうが自然ではなかろうか.たとえば新潟焼山・焼岳・乗鞍岳・御岳からの降灰であった可能性も検討されるべきである.

 大森(1918)もこの降灰記事を浅間山噴火の項の冒頭におき,「天武天皇十三年三月(685年4月)是月灰零於信濃国,草木枯焉(日本書紀)」と,注釈なしで,書いている.以後この見解は定着したらしく,浅間山の最古の噴火を685年とみなした文献は多数ある.

 なお,小鹿島(1893)と大森(1918)が天武天皇十三年と書いているのは,彼らが壬申の乱のときの弘文天皇即位を認め,『日本書紀』に書かれた年数から一減じて年紀を表記する方法をとったからである.現在の日本史学界では,日本書紀の記載の通り天武天皇十四年と表記するのがふつうである.西暦では685年に相当する.

 887年(仁和三年)

 仁和三年(887年)に浅間山が噴火したという主張が,かつてあったらしい.村山(1989)が指摘したとおり,その根拠としてあげられた仁和三年の記述(『越後年代記』など)は新潟焼山の噴火を書いたものと解釈するのが妥当である.新潟焼山の噴火堆積物の分布と特徴およびその放射性炭素年代も,この解釈を裏付けている(早津,1994).

 1108年(嘉承三年/天仁元年)

 浅間山のBスコリアの噴火は,『古史伝』などの記述を根拠として,1281年に起こったと考えられたことがあった(荒牧,1968).しかし新井(1979)は,『中右記』の記述と噴火堆積物の放射性炭素年代を理由に,Bスコリアの噴火は1108年に起こったと考えた.

 Bスコリアは,浅間山の東50kmの前橋市で15cmの厚さをもつ.火山近傍では,その中間に追分火砕流堆積物を挟んでいる.追分火砕流は山頂火口から南北両方向に流下し,軽井沢町追分・小諸市石峠・嬬恋村大笹・長野原町北軽井沢に達した.多数の死者があっただろうが,火砕流による被害状況は記録に書かれていない.この噴火のマグニチュード(早川,1993)は5.1で,過去1万年間に浅間山で起こった噴火の中で最大である.

 『中右記』の天仁元年の条に,次のようにある.

 天仁元年八月二十日(1108.9.28)「近曽天下頻鳴動、若依何祟所致哉」(この項、榎原雅治さんからの2006.7.17教示による。)

 同年八月二十五日(1108.10.3)「寅卯時許,東方天色甚赤」

 同年九月三日(1108.10.11)「天晴,早旦東方天甚赤,此七八日許如此,誠為奇,可尋知歟」

 同年九月五日(1108.10.13)「近日上野國司進解状云,国中有高山,稱麻間峯,而從治暦間(1065-1069)峯中細煙出來.其後微々成,從今年七月二十一日(1108.8.29)猛火燒山峯,其煙屬天沙礫滿國,【火畏】燼積庭,國内田畠依之已以滅亡,一國之災未有如此事,依希有之怪所記置也.」

 同年九月二十三日(1108.10.31)「今日午時許有軒廊御卜,上卿源大納言,俊,上野國言上麻間山峯事」

 『中右記』は権中納言藤原宗忠の日記である.京都で書かれた.嘉承三年八月三日(1108年9月9日)の鳥羽天皇即位によって改元されて天仁元年になったのだから,この噴火の報告が京都に上がったのは天仁元年九月五日だが,この噴火が始まった七月二十一日はまだ嘉承年間である.

 上野の国で発生したこの事件が京都に伝わるのに一か月半もかかったという事実は,当時の交通事情を考慮しても遅すぎるように思われる.上野の国がいちじるしく混乱して京都への報告が遅れたのだろうか.

 浅間山の噴火を記述した部分を口語訳してみよう。1108年8月29日、前橋にあった国庁の庭に火山灰が厚く降り積もった。そのため上野国の田畑の多くが使用不能になった。これ以前の浅間山は、治暦年間(1065-1069)に噴煙を細く上げていたが、その後、かすかになっていた。9月28日に、京都で何度も鳴動があった。そして10月3日から11日まで、東方の空が甚だしく赤かった.

 『中右記』と同じく京都で書かれた摂政藤原忠実の日記『殿暦(でんりゃく)』の嘉承三年八月条にも次の記述がみつかる。

「十八日(1108.9.26),乙未,天晴,丑剋許東北方有大鳴,其聲如大鼓,夘時従院左衛門尉頼,来云,御使,此鳴如何,余申奇由了,午剋許聲又同」

「廿日(1108.9.28),丁酉,天晴,(中略)天下鳴事有御卜」

八月廿日の鳴動だけでなく、その二日前、十八日未明にも、北東の方角から太鼓のような大きな音が聞こえたという。白河院が「この音は何か」と忠実に問い合わせたほどだった。『神皇正統録』に「天仁元年戊子八月十七日(1108.9.25),虚空ニ聲有テ鼓ノ如シ.数日断マス」とあるのは、日付の切り替わりを当時の常識的な寅の刻で考えて、丑はまだ前日だから十七日としたのだろう(高橋昌明さんからの2006.7.18教示による

『中右記』と『殿暦』の記述を浅間山麓の地質調査結果と照合すると、噴火経緯を次のように組み立てることができる(Table 2)。8月29日、Bスコリア下部の噴火が起こった。それは一日ほどで終わった。追分火砕流からのサーマル火山灰はBスコリア下部を整合に覆い、Bスコリア上部に浸食不整合で覆われているから、この噴火の最後の段階で追分火砕流が山頂火口から南北2方向に流れ下ったと考えられる。それは、おそらく8月30日だったろう。噴火はいったん収まったが、4週間後の9月26日未明からBスコリア上部の噴火が始まった。これは数日継続したらしい。Bスコリア上部の分布軸は北東に伸びていて、東南東に伸びるBスコリア下部と方向が違う(中村・荒牧、1966;宮原、1991)。4週間の時間差は、この風向きの違いをうまく説明する。上野国の田畑の多くは浅間山の南東に当たるから、初めの噴火で使用不能になった。上の舞台溶岩の流出時期は史料から推定することができない。

 九月二十三日に行われた軒廊御卜 (こんろうのみうら)は,宮中の渡り廊下で行われた占いのことである.彗星の出現や自然災害が国家に吉であるか凶であるかを判定して,もし凶とでた場合には改元などでそれを予防した.浅間山のこの噴火の場合は,改元には至らなかったが軒廊御卜の対象となった.辺境で起こった噴火であるにもかかわらず当時の中央政府にこのように注目された事実は,その規模がかなり大きかったことを示していると考えてよいだろう.

 このあとまもなく東国には再開発ブームが起こり,12世紀中葉に荘園造立ラッシュが訪れた.浅間山の1108年噴火が,北関東地域が古代から中世へ転換するきっかけになったと峰岸(1992)は指摘している.

 他の古記録では,『立川寺年代記』に「天仁元,此年信州浅間峰震動」とあり,『興福寺年代記』に「天仁元年,天ニ聲アテ鼓ノ如ク鳴ルコト数日不断」とある.

 Stuiver and Pearson (1993)によると,1108年に対応する放射性炭素年代は950 yBPである.Bスコリアから980±100 yBP (GaK505; 荒牧・中村,1969) と1010±90 yBP (GaK506; 荒牧・中村,1969),追分火砕流堆積物から870±80 yBP (TK21; Sato et al., 1968) が報告されている.

 この地域で通常7月下旬に行われる「土用干し」のあとの状態の水田を,群馬町同道遺跡でBスコリアが覆っていることは,それが1108年8月下旬に降灰したと考えることと矛盾しない(能登,1988).一方『古史伝』に書かれた1281年6月26日は,覆われた水田の状態が示す降灰の季節と矛盾する.

 1281年(弘安四年)

 弘安四年六月九日(1281年6月26日)に浅間が噴火したという記事は,天明三年(1783年)の噴火記録を書いた『浅間大変記』とその類書の冒頭に書かれている.すなわち,それは噴火から500年も後になって書かれたものである.平田篤胤(1776-1843)の『古史伝』に書かれている記事もたいへんよく似ているから,これも『浅間大変記』を元に書かれたにちがいない.

 「浅間山ハ此度初て焼出し候にてもなし.昔弘安四年六月九日の暮方,山より西に黄色之光り移り,同夜四ツ時焼出し,信州追分,小諸より南へ四り余の間灰砂降り,西に海野え続き田中之辺迄今に田地火石おし出し置,北に山麓迄おし出し,其所を石とまりと言習いせり.人生百歳をたもつ者なけれは知らす.」(浅間焼出山津波大変記)

 「追分・小諸より南四里余りの間砂灰ふり,大石今にあり,北は山の麓まで押出して,今に此所を石どまりと云う」(古史伝)

 これら史料がいうところの場所のいずれにも,そのような噴火堆積物をいま見つけることができない.「石とまり」という地名も特定することができない.この噴火史料はまったく信頼がおけないものか,あるいは事実に基づいているとしても,M2以下の小さな噴火を記録したものであろう. 

 1532年(享禄四年)

 井出道貞(1756-1839)による『天明信上変異記』に以下の記述がある.

 「享禄四年辛卯十一月二十二日大雪にて,降り積る事六尺又は七尺の所もあり,二十三日二十四日晴天に而,二十五日より二十七日迄時々降りける,然るに二十七日浅間山大に焼出し,大石小石麓二里程の内雨の降る如く,中にも大原といふ所へ七間餘の岩石ふりける,是を七尋石と名づけて,今に有.灰砂の降る事三十里に及べりとぞ,無間谷といへるは浅間を引まはし,巌石峨々として恐しき大谷なり,前掛山といふは,焼山を隠して佐久郡に向,鬼の牙山黒生山の間谷に右の大雪降り積もりし処に,焼石のほのほにて一時に消えたり,又二十七日七ツ時より大雨となり,二十九日まで昼夜の別ちなく降りければ,山々の焼石谷々より押し出し,麓の村々多く跡方なく流れしとそ,其後街道不通路になりしを,其時の領主近郷へ申付,小ともかたよせ,四年が間にて街道普請成就せり,今に至り山の半腹街道筋皆焼石のみなり,是降りたるにはあらず,其時押し出せし石なり.」

 『天明信上変異記』も天明三年(1783年)の噴火のあとに書かれた記録である.享禄四年十一月大雪のあと,二十七日(1532.1.4)に浅間山が噴火して泥流が発生し,多数の村が流された.街道を修復するのに四年かかったという.八木(1936)は蛇堀川の中流に「七尋石」を図示している.しかしこの記録がどこまで事実を忠実に書き残しているかは,同時代に書かれた原史料がみつからないかぎり判断できない.16世紀は,日本各地で洪水の被害記録が多い時代である.

 1596年(文禄五年/慶長元年)

 同じく『天明信上変異記』に次の記述がある.

 「慶長元年四月四日(1596.5.1)より八日迄山鳴大焼,八日午刻大石降,七月八日大焼,石近邊へ降,人死」

 この年は,『武江年表』に「六月十二日,京都・畿内・関東諸国大ニ土降ル,マタ毛ヲ降ラス」とあり,『当代記』に「前ノ七月ノ如、浅間焼上、西ノ方ヘ焔コロフ、此故カ近江・京・伏見、其比灰細々降、其故ニヤ秋モ少々凶と云々、信濃ナトハ此灰一寸計ウマル、関東ハ不降、但是モ同秋凶云々」とある.この他,『続史愚抄』『アジアの記録』などにも降灰降毛の記事が認められる(武者,1941;村山,1989など).これらの史料の多くは18世紀に書かれたものだが,国立公文書館に保存されている『当代記』写本4種類のうちひとつは江戸時代前期に書かれたものだという(田良島,私信1998.2.4).

 小山(1996)は,『義演准后日記』『舜旧記』『孝亮宿【示すへんに禰のつくり】日次記』などの同時代史料に1596年の畿内降灰の記述があることを指摘した.したがって,少なくとも畿内に降灰・降毛があったことは事実だとみてよい.1596年の畿内降灰・降毛事件の給源を浅間山とする村山(1989)の解釈には議論の余地があり,白山・九州の火山・大陸の火山などが給源である可能性を検討するべきだと,小山(1996)は述べた.しかしその検討はまだ結論をみていない.ここでは『当代記』の記述を信用して,浅間山が給源火山だったと考えることにする.史料がいう季節は夏である.夏期における日本上空の風向きを考えると(早川,1996,p101),浅間山の噴火によって京都に降灰・降毛があったと考えてもさほどおかしくない.ただし『天明信上変異記』の「七月八日大焼,石近邊へ降,人死」という記述は,1783年噴火のクライマックスとまったく同じ月日なので,創作の疑いがある.

 浅間山東麓でBスコリア(1108年)とA軽石(1783年)の間にみつかるA' 軽石は,この年前後の噴火の堆積物かもしれない(早川,1995).

 1598年(慶長三年)

 『当代記』に,「慶長三年....四月八日(1598.5.13),浅間山江参詣衆八百人程焼死云々、昨日大小之違ニテ、今日ハ不縁日之由、山巓ニテ呼ルト云へ共、只人間ノ所謂也ト心得、不用之、参詣之処、如此、」とある.
 『当代記』は,著者や成立年代がよくわからない記録である.800人ほど焼死したと書いているが,「云々」と締めくくっていることから,伝聞情報をもとに書かれた記事であると思われる.
 たしかに四月八日は浅間山の山開きの日であるから(田村・早川,1995),その日に大勢の信者が登山したかもしれない.しかし800人という数は,登山中に火口周辺で爆発に遭遇して亡くなる人の数として現実的でない.

 1721年(享保六年)

 『浅間山大焼無二物語』に以下の記述がある.

 「享保六年五月二十八日(1721.6.22)昼大焼け.此の年閏は七月に有る.当日関東の者拾六人嶺上ぼる皆打殺し死す.右之内漸々壱人命助り然レ共是迄来ル分も不知と云へり」

 これと似た記事が『月堂見聞集』にあるが,その噴火日は六月二十八日になっている.どちらも18世紀に書かれた史料だから記録の同時代性は心配しなくてよい.1721年6月22日の爆発で,登山中の16人のうち15人が絶命したのは事実と認めてよいだろう.

 1783年(天明三年)

 天明三年の浅間山噴火を書いた古記録は大量にある.郷土史家である萩原 進は,県史や村史などに分散して収録されていたそれらを整理して,全5巻からなる史料集として刊行した(萩原史料:萩原,1986,1987,1988,1993,1995).この噴火のマグニチュードMは4.8であり,1108年のM5.1に次ぐ規模である.

 最近,荒牧(1993a)と田村・早川(1995)は萩原史料などを火山学的視点から再検討し,1783年噴火の経時変化を考察した.両者の結論は本質的なところでかなり異なる.荒牧(1993a)は,鬼押出し溶岩が最後に流出したと考えているが,田村・早川(1995)は,鬼押出し溶岩は8月4日深夜の軽石噴火のさなかに流れ出し,翌日その先端から鎌原岩なだれと熱雲が発生したと考えている.

 この噴火による死者は,8月4日に軽井沢宿にいて降ってきた軽石にあたった2人(田村・早川,1995)と,翌5日に発生した鎌原岩なだれとそれから転化して吾妻川を下った熱泥流に巻き込まれた1400人余であるという.1400余という死者数は,たとえば荒牧(1993a)にも引用されているが,その内訳はよくわかっていない.幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門の『浅間山焼に付見分覚書』(萩原2.332)を集計すると1124人が得られる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』によると、翌天明四年七月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者の数ずつ配ったという。それを集計すると、1490人になる(萩原2.99-105)。根岸の集計とおおむね一致するが、根岸の集計にはない村が合計数を増やしている。黒岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、合計1492人を天明三年噴火の犠牲者数と考えるのが妥当である。

 なお,1281年以降の項で言及したほとんどの史料の性格は,田村・早川(1995)に整理されている.

3.明治以降の噴火災害

 明治以降の浅間山噴火記録は多数ある.村山(1989)は,それらを発生順に整理している.以下では,死者が出た噴火(爆発)だけを取り上げる.1800年代に浅間山での死者は知られていない.

 1900年(明治三十三年)

 スミソニアン博物館が出している世界の噴火リスト"Volcanoes of the World" (Simkin and Siebert,1994) の171ページに,次のようにある.

 "1900 0715 >25? A boulder swept through village killing 25 persons. Women and children became exhausted along road and burned to death."

 1900年7月15日前後の新聞を調べたが,浅間山で25人もの人が亡くなった惨事を書いた記事をみつけることができなかった.おそらく,同年7月17日,安達太良山で72人が死亡した噴火と取り違えたのであろう.

 1911年(明治四十四年)


 1911年5月9・11日の上毛新聞および10日の朝日新聞によると,5月8日15時30分に浅間山が爆発し榛名山方向に灰が降った.5月8日は山開きだったため午前中は多くの登山者がいたが,ほとんど爆発の前に下山した.山頂ちかくにいた22歳の男性が,「着物焼けて丸裸になって手足髪の毛焼けて」死んでいるのが発見された.負傷者も数名あった.また,ひとりの女性が行方不明になったという.

 大森(1918)は,この爆発による死者を1名としている.この行方不明の女性は,その後,無事であることが確認されたのだろう.「気象要覧」に死者の記述はない.

 同年8月16・17日の毎日新聞および17日の上毛新聞によると,浅間山は8月15日4時30分に爆発した.爆発はそれほど強くなかったが,お盆の15日だったため,山頂ちかくに80人余の登山者がいて,2名が死亡,36名が負傷した.山上には,さらに十数名の死傷者がいたという.

 8月18日の毎日新聞は,さらに数体の遺体を発見したと伝えているが,「今回の噴火による死者かどうかは確定できない」と書いている.投身自殺者との区別がむずかしいことを言っているのだと思われる.8月15日の爆発による死者が何人だったかを私たちは確認することができなかった.「気象要覧」にこの爆発は書かれていない.

 1913年(大正二年)

 1913年6月2日の上毛新聞によると,「...佐十郎(二二)と...三一郎(二六)の両名五月二十九日浅間山に登山せんと...大爆発あり雨霰と砂礫の飛び散る中を逃げ出さんとし佐十郎は溶岩の為めに大火傷を負ひ命からがら下山したるも三一郎は行方不明となりたり急報により多数登山して捜索中の処一昨日に至り土砂中に埋没せる三一郎の屍体を発見して引取りたりといふ時恰も登山の好季節に入り日々登山する者も少なからざる由なるが注意せざれば不測の難を被るべし」

 5月29日の爆発で登山者が一人死亡・一人負傷した.大森(1918)によると,この爆発は10時44分12秒に起こり,愛知県まで爆発音が聞こえ,長野原と越後中部の数カ所で降灰がみられた.「気象要覧」には爆発の時刻が10時48分とあり,死者の記述はない.

 1930年(昭和五年)

 1930年8月21日の上毛新聞によると,「浅間山は二十日午前八時五分大音響と共に爆発した.当日登山者は数十名あり内男子四名,女子二名計六名は無理に頂上に登ったため〓ヶ峰の上に三名,噴火口より三百間離れた剣ヶ峰の下に三名何れも溶岩に打たれて無惨な死を遂げているのが発見された」

 亡くなった六人が「無理に頂上に登った」と書いた新聞記者は何を言おうとしたのだろうか.制止勧告を振り切って登山したことを言ったのか,それとも悪天候にもかかわらず登山を決行したことを言ったのか.「気象要覧」には爆発の時刻が8時14分とあり,前橋・足尾に降灰があったと書かれているが,死者については書かれていない.

 1931年(昭和六年)

 1931年8月21日の上毛新聞によると,「十九日の早朝の爆発以来全山黒煙に包まれて不安な鳴動を続けていた浅間山は廿日午前三時二十分大爆発をなし更に十数回に亘る連続的の小爆発続いて午前九時四十五分物凄い唸りを生じたと思ふ瞬間又々大音響と共に黒煙猛然と噴き出して大爆発し噴煙は大小岩石と共に冲天して山麓一帯に落下した軽井沢沓掛付近は相当の被害を見たらしく本県も松井田長野原方面の西上州一円は時計の振子の止まるほどの震動を見,数分間に亘って降灰があった.」

 「近年稀に見る被害を被った軽井沢署では登山者の有無を捜索中であるから東京...店員...三名は同日午前一時頃峰の茶屋より登山した為め爆発当時は八合目か頂上に達する時間にあり余程の地物を利用して避難せぬ以上惨死したものと見られて居る.」

 二年続けて8月20日に死者が出たらしい.3人が死亡したという.

「気象要覧」には,3時21分の爆発で福島県西部まで降灰がみられ,9時44分のやや強い爆発では長野・前橋・甲府・熊谷・松本で降灰がみられたとあるが,死者の記述はない.

 1936年(昭和十一年)

 気象庁(1991)は,7月29日に登山者一人が死亡したと書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.「気象要覧」には,7月29日9時10分に爆発し,銚子に0.3g/m2の降灰があったとあるが死者の記述はない.

 1936年10月18日の毎日新聞によると,「浅間山は十七日午前九時三十四分大爆発したが折柄頂上にあった中央大学専門部経済科...の三名は〓〓降る溶岩の中を命からがら血の池方面へ逃げ下ったが,大窪澤地籍で三名中羽生君の右足に溶岩落下して打倒れ,...午後八時頃出血が甚だしく遂に絶命」

 10月17日9時34分の爆発によって登山者一人が亡くなったことが確かである.

 1938年(昭和十三年)

 気象庁(1991)は,「7月16日登山者遭難若干名」と書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.「気象要覧」には,7月16日13時01分の爆発でとくに多量の降灰があり,浅間山の正南方20kmで400g/m2以上,甲府に降灰したとあるが,死者の記述はない.

 1941年(昭和十六年)

 気象庁(1991)は,「7月9日死者1名,負傷者1名」と書いているが,私たちは当時の新聞記事でそれを確認することができなかった.戦争に突き進んでいた当時の社会状況下では,浅間山の爆発による遭難は新聞に書かれにくかったのかもしれない.

 「気象要覧」をみると,7月9日の爆発は23時32分に起こったとあるが,死者の記述はない.そのかわり,7月13日13時05分の爆発で死者1名,重傷者2名とある.

 軽井沢測候所が1956年にガリ版刷りで発行した『浅間山爆発史集 685-1955』(気象庁本庁所蔵)には,7月9日23時32分の爆発爆発に関する5行の記述の後に続けて,「13時06分「ドーン」と云ふ底力のある音と共に障子が稍々強く震動を感ぜり」とある.軽井沢測候所に所蔵されている原稿を西脇 誠さんが確認したところ,そこには刊本にない一行があり,「七月十三日」と書かれていることがわかった.

 13時06分の爆発の様子がそこにはたいへん具体的に書かれている.「尚この爆発当時山頂にありし4名中3名は追分に大笹に下山せしも他の1名は火口近くにて死体となり焼石のため「クシャクシャ」となって居った尚ほ追分に下山した遭難者酒井氏(新潟鉄道局員)も焼石のため数個所負傷せり此の語るところによると爆発前少々鳴動を感じたりと云ふ当時は霧のためにて火口全く望み得ざりしも爆発后大分霧が晴れたる如く感じた火口附近は西風にて噴煙は東に流れた如く煙にあわざりしは不幸中の幸いなりと附近一帯焼石落下盛なりしも降灰なし...」

 霧が晴れて噴煙の様子が見えたという記述は,これが7月9日夜間23時32分の爆発ではなく7月13日昼間13時06分の爆発の記述であることを証明している.したがって,死者が出た爆発は7月13日13時06分だったことが確実である.負傷者が1名か2名かは確定しがたい.

 1947年(昭和二十二年)

 気象庁(1991)は,「8月14日12時17分の噴火では噴石,降灰,山火事,噴煙高度12,000m,登山者11名死亡」と書いている.「気象要覧」には,前橋・山田温泉降灰,湯の平で山火事,登山者9名死亡とある.

 8月16日の毎日新聞に,「黒こげ四死体 浅間山の遭難」の見出しで記事がある.総計で11名が死亡したのだろう.岸田今日子の爆発体験日記

 1950年(昭和二十五年)

 気象庁(1991)は,「9月23日04時37分の噴火で登山者1名死亡,6名負傷,山麓でガラス破損,爆発音の外聴域出現」と書いている.「気象要覧」には,前橋(88g/m2)・水戸・東京(1.2g/m2)降灰,死者1名,負傷者6名とある.

 これを裏付ける記事が9月24日の毎日新聞にある:「登山者四十三名中賽の河原で長野工高二年生YA君(一七)が火山弾で死んだほか重傷一,軽傷男四,女三を出し他は命カラガラ下山した.」(注:氏名をイニシャルに置き換えた)

 この爆発によって、大きな岩塊が投げ出されて釜山火口縁に上にちょうどのった。これを千トン岩という。千トン岩は釜山火口の真北に着地しているので、よいランドマークとなっている。気象庁軽井沢測候所が作成した1950年9月23日噴火による放出岩塊分布図

 1958年(昭和三十三年)

 11月10日22時50分の爆発で、火口から3.8キロの血ノ池付近に直径90センチの火山弾が落下したと、軽井沢測候所が1971年に作成した「火山噴火にともなう噴出物の飛距離について(浅間山の噴火と4Km制限に関連して)」に書いてある。

 1961年(昭和三十六年)

 気象庁(1991)は,「8月18日に23か月ぶりに噴火,かなりの範囲に噴石,降灰,行方不明1名」と書いている.「気象要覧」には,8月18日14時41分の爆発で1名死亡,三島・網代に降灰があったとある.

 8月19日の毎日新聞によると,爆発が起きたのは18日午後2時41分らしい.同日の朝日新聞夕刊によると,「十九日の朝なお行方のわからないのは神奈川県平塚市...KYさん(四一)...だけで,同日小諸,軽井沢両署員が捜査に向かった」とある.(注:氏名をイニシャルに置き換えた)

 このあと浅間山は静かになり,1973年2月1日に爆発するまで11年3ヶ月間静穏だった.そのあとしばらく,ごく小さな火砕流を発生させるなどして5月24日まで断続的に爆発を繰り返したが(荒牧,1973),再び静かになり,1982年4月26日東京降灰(荒牧・早川,1982;M1.0),1983年4月8日前橋・宇都宮・小名浜降灰(「気象要覧」;M1.2),1990年7月20日東麓8kmまで降灰(「気象要覧」)だけを経験して現在に至っている.

4.史料に書かれた浅間山噴火史のまとめ

 685年の噴火記録も887年の噴火記録も,浅間山のものであることが否定されるから,もっとも古い浅間山の噴火記録は,『中右記』に書かれた1108年8月29日前橋降灰の記述となる.1108年噴火(M5.1)は過去1万年間における浅間山最大の噴火だったことが堆積物の調査からわかっている.『中右記』の記述には,それを裏付けるように,この噴火が国家的大事として扱われたことが書かれている.

 1783年噴火の規模(M4.8)がこれに次ぐ.これら二つの大噴火の間,浅間山がどのような状態だったかを文字史料から知ることはむずかしい.北東山麓の1108年スコリアと1783年軽石の間には薄い軽石層(A')が一枚挟まれている.この軽石の分布の全貌はまだわかっていないが,M3級であると思われる.この軽石の噴火年代は,京都に降灰降毛があった1596年夏あるいはその前後だった可能性がつよい.1598年に800人が死亡したという『当代記』の記述は信頼できない.『天明信上変異記』に書かれている1532年の大洪水の記録も事実である保証はない.17世紀になると「噴火」あるいは「大焼」の文字が書かれた記録が残る年が増えて,その傾向は1783年直前まで継続するが,噴火あるいは災害の具体的記述はほとんど書かれていない.ただし,1721年に登山中の15名が爆発にあって死亡したという『浅間山大焼無二物語』の記録は,目を引く.17世紀以降の噴火記録数の増加が浅間山の火山活動の活発化を示しているかどうかは疑わしい.近世になって,単に記録が残りやすくなったことによるみかけの現象である可能性がある.

 1783年以降は,1803,1815,1869,1875,1879,1889,1894,1899,1900年に山頂で爆発があったが(村山,1989),死者は報告されていない.

 観測記録がよく残っている明治元年(1868年)以降をみると,1890年代から徐々に爆発回数が増え,1941年に年間爆発回数398回のピークを記録した(気象庁,1991).その後,数年おきに年間200回以上の爆発を記録したが,1958年(263回)を最後に衰えた.88回の爆発を数えた1973年だけを例外として,浅間山は現在まで,明治初年当時と同じくらい静穏な状態を長く続けている.

 明治元年から現在までの爆発総回数は約3000回である(気象庁,1991).一回の爆発の規模は,最大でM1.5,平均的にはM0.5程度だから,全部合わせるとM4.0に相当する.これは1783年噴火の噴出量(M4.8)の約1/6である.

5.浅間山噴火災害の形態

 史料に記述はないが,追分火砕流堆積物の分布(荒牧,1993b)をみると,1108年噴火によって多数の住民が死亡しただろうことはほぼ確実である.追分火砕流堆積物の上ではいま,長野県側で5000人,群馬県側で3000人が生活している.

  1532年1月に蛇堀川を熱泥流が下って多数の村が流されたと書いた18世紀の史料があるが,同時代史料がみつかっていないため真偽のほどはわからない.ただ蛇堀川の源流である湯の平は,積雪期に山頂火口で噴火が起こったらそのような災害を発生させてもおかしくない地形をしている.

 1783年噴火の死者1400人余のうち,軽井沢で軽石にあたって死んだ2人以外は,岩なだれと熱泥流による北側(群馬県側)での被害である.山頂火口はいまも北側が低いから,火砕流・岩なだれ・泥流などの流れによる災害の脅威は群馬県側に大きい.

 上に述べた災害以外はどれも,突然のブルカノ式爆発に遭遇した登山者が噴石にあたって命を落とした事例である.1596年に数人が死んだというのは事実だと思っていいだろうが,1598年に800人が死んだというのは,すでに述べたように,創作である可能性が高い.1721年には,15人とやや大きな数の死者が出た.19世紀には死者がなく,20世紀になって12回の爆発で約30人が命を落としている.事故は登山者が多い夏期に集中している.ただし雨天が続きやすい6月の犠牲者はゼロである(Table 3).

6.浅間山防災対策の現状

 浅間山の防災対策がいまどうなっているかを以下で論じよう.

 軽井沢町追分にある気象庁軽井沢測候所と峰ノ茶屋にある東京大学浅間火山観測所が,浅間山の火山活動を常時監視している.また地元自治体が,山頂火口縁の東西二ヶ所にテレビカメラを設置している.この映像は長野原町立火山博物館で観光客にも公開されている.こうした監視で異常が認められたときは,軽井沢測候所が臨時火山情報を出して住民と観光客に注意を促すことになっている.

 過去の噴火事例をもとに将来の噴火災害を予測したハザードマップが関係六市町村によって1995年につくられた.住民啓発用のマップは山麓の一般家庭に配布されたという.この試みは評価できるが,マップを配布しただけで住民を啓発できたと行政がもし考えているとしたら,それは誤りである.火山の知識の普及活動を継続的に行って住民の火山意識を常に高めておく努力を怠ると,いざというときにせっかくつくったマップが有効に使われるかどうか疑わしい.またハザードマップは,研究の進展によって次々に書き替えられるべき性質のものである.一度つくったハザードマップは簡単には変更できないという硬直した態度を,行政はとるべきでない.

 災害対策基本法63条の規定によって地元市町村長は,浅間山頂火口から4km以内を警戒区域に指定して立ち入りを禁止している.ただし最近の活動静穏化を受けて,1995年7月より,小浅間山・石尊山・湯の平までの登山道に限り入山できるよう規制が緩和された.登山を通して浅間山に親しむことは,結果として住民と観光客の防災意識を高めることにつながる.静かないまのうちに,多くの人が浅間山に登って山のことをよく知ってほしい.

謝 辞 小鹿島 果の読みと天武年間の年紀表記について森田 悌さんに教えを受けました.『殿暦』の1108年の記述は小山真人さんから教えてもらいました.『当代記』の性格について田良島 哲さんに教えを受けました.「気象要覧」『浅間山爆発史集 685-1955』の閲覧に際して浜田信生さんと西脇 誠さんに助けていただきました.以上の方々に感謝します.

引用文献


火山43巻4号213-221頁(1998年)に印刷した論文に、その後の知見を赤字または青字リンクで加筆修正したものです。
2006年7月19日までは、印刷原稿ではなく、投稿原稿がこのURLに掲げてありました。