火山灰編年学からみた

前期旧石器発掘ねつ造事件

早川由紀夫(群馬大学教育学部)

要旨 前期旧石器発掘ねつ造が20年もの長きにわたって見逃された理由は、前期〜中期旧石器時代が放射年代測定法の「エアポケット」にあるために測定された年代の科学的根拠が乏しいから、ではない。現代日本の火山灰編年学は、前期〜中期旧石器時代に堆積した地層の年代を、十分確からしく決めるちからをもっている。藤村新一は、20世紀末にあった日本火山灰編年学の飛躍的前進とその重要性を、どの考古学者よりも迅速的確に理解していたようにみえる。彼は、過去の巨大噴火で日本中に降り注いだ火山灰の最新学術情報を手にしてしかるべき土地を訪れ、そこでもっとも効果的な「発掘」を成し遂げるのを繰り返してたのではないか。彼は、どこで石器を出せば日本最古記録を更新できるかを、きわめて正確に把握していたようにみえる。火山灰編年学界では,1980年代に、彼がもつ「神の手」への疑惑が述べられたが、前期旧石器発見ニュースの繰り返しの前に、それはほとんど忘れ去られてしまっていた。

昨年11月に発覚した藤村新一による前期旧石器発掘ねつ造は、1953年に英国で発覚した頭骨発掘ねつ造(ピルトダウン事件)に匹敵する重大な考古学スキャンダルである。藤村によるこのねつ造は、なぜ20年もの長きにわたって見逃されたのだろうか。

 前期〜中期旧石器時代の年代を正確に決定することがいまだに困難であることを、その理由にあげる人がいる。ねつ造を11月5日にスクープした毎日新聞は、その二日後の7日、前期〜中期旧石器時代の出土物年代測定には科学的根拠が乏しく、その時代が「エアポケット」に当たっているためにこのねつ造が見逃されたと書いた(図1)。

 しかし私は、1)前期〜中期旧石器時代の年代測定に科学的根拠が乏しい、2)それが今回のねつ造を成立せしめた、と考えることはどちらも正鵠を得ていないと考える。

前期〜中期旧石器時代は「エアポケット」か?

 後期旧石器時代とそれより新しい時代の年代は、放射性炭素14をもちいた年代測定によって精度よく決定することができる。後期旧石器時代の中頃にあたる2万年前から300年前の江戸時代までは、年輪年代との比較による補正曲線が整っていて、その時代の年代測定法として放射性炭素法は大きなちからを発揮している。

 しかし3万年前より古い時代にあたる前期〜中期旧石器時代の年代測定に、放射性炭素法はほとんど役に立たない。無理すれば5万年前まではなんとか測定できるが、5万年前を超えるとまったく歯が立たない。放射性炭素14は、5万年たつとことごとく窒素14に壊変してしまう。どんなに高価な器械をもちいて測定しても、極微量のそれを検出することは、できない。

 上高森遺跡には40万〜70万年前の遺物が残されていると信じられている。こういった古い時代の年代測定には、放射性炭素法ではなく、カリウムアルゴン法やフィッショントラック法などが使われる。しかしこれらの測定法で得た前期旧石器時代の年代の信頼度は、後期旧石器時代およびそれより新しい時代について放射性炭素法で決めた年代の信頼度より格段に下がる。これらの測定法の中には、100万年より古い時代であればかなりの信頼度で年代を決定できるものがあるが、数十万年前の時代の年代測定は、どの測定法も苦手としている。

 だから前期〜中期旧石器時代が、放射性物質の壊変にもとづく年代測定の精度の谷間すなわち「エアポケット」にあるとした毎日新聞の指摘は当たっている。しかし、そうであることと、前期〜中期旧石器時代に堆積した地層に現代地質学が与える年代が信用できないことは違う。いまの日本の地質学および火山学は、前期〜中期旧石器時代に堆積した地層の年代を、火山灰編年学によって、十分確からしく決めるちからをもっている。

20世紀末にあった日本火山灰編年学の飛躍的前進

 大きな噴火は、めったに起こらない。数が限られている。そして、何万年に1回しか起こらないような巨大噴火が残した痕跡すなわち地層中の火山灰は一つひとつ固有の特徴をもっているから、化学的・形態学的にそれらを識別することができる。日本では、給源火山・層位と年代・構成粒子の特徴をつまびらかにした火山灰カタログの整備が、20世紀の第四四半期に飛躍的に前進した(表1)。それまでは、南関東の一部を除いて、後期旧石器時代の範囲内に留まっていた火山灰カタログが、1980年代には中期旧石器時代まで、1990年代には前期旧石器時代まで遡って整備された。

 前期〜中期旧石器時代すなわち地質学で言う第四紀には、10万年余をサイクルとして氷期と間氷期の繰り返しが何回もあった。この繰り返しは、深い海の底にゆっくりとしかし絶え間なく堆積した泥の層の中に含まれるプランクトンの死骸の酸素同位体比を規則的に変化させた。そのピークの一つひとつには海洋同位体ステージと呼ばれる万国共通の番号が付されている。海洋同位体ステージの年代は、1)世界中のさまざまなそして多数の地質試料の放射年代測定値と、2)氷期と間氷期の繰り返しをコントロールしている地球軌道のゆらぎの天文学的理論計算によって、詳しく決定されている。したがって、深海底に堆積した巨大噴火火山灰の海洋同位体ステージを知ることができれば、その噴火年代をグローバルな尺度で正確に決定することができる。こうして決められた年代は、単発試料に対して得た放射年代値より、信頼度が高い。

 たとえば熊本県の阿蘇カルデラから噴出した阿蘇4火山灰は、海洋同位体ステージ5.2のときに深海底に堆積した泥の間に挟まれている。海洋同位体ステージ5.2の年代はグローバルに8万7000年前と決定されているから、阿蘇4噴火の年代がそれによって決まる。北アルプスの水鉛谷火道から噴出したTE5と呼ばれる火山灰は海洋同位体ステージ11にみつかるから、37万年前の噴火である。霧島山の北東にある宮崎県小林市を囲む小林カルデラから噴出したサクラ火山灰は海洋同位体ステージ13.3 にみつかるから、54万年前の噴火である。

 前期〜中期旧石器時代に堆積した地層の年代は、こういった巨大噴火による火山灰との位置関係を明らかにすることにより、数千年〜数万年の精度で決定できる。地層の上下関係は絶対に揺るがない事実である。そして下にあるものほど古いことも確かである。

 たとえば埼玉県秩父市の小鹿坂遺跡では、水鉛谷TE5火山灰の下4.6メートルにある軽石層の直下から石器が出土したと報告された。水鉛谷TE5火山灰が37万年前であることを根拠に、この層位の年代が50万年前であることは誤差±5万年程度で確からしい。誤差は、厚さ4.6メートルのうち3/4を占めるローム層の堆積速度が正確に決まらないことによる。今回のスキャンダル発覚でこの石器「出土」層位の年代観が揺らぐことは、ない。今回のスキャンダルで信頼が揺らいだのは、そのローム層から石器が出土した事実である。なぜなら、そこでの石器発見者が、上高森遺跡と総進不動坂遺跡でのねつ造を認めた藤村新一だったからである。

彼はなぜ「神の手」を持つことができたか?

 行く先々で前期旧石器を掘り出して日本最古の発見を何度も成し遂げた「神の手」を、藤村はなぜ持つことができたのだろうか。その背景は、毎日新聞が書いた「遺跡からの出土物の年代測定の難しさ」や「旧石器時代の地層は、現在の測定方法がカバーしきれないエアポケットに当たっていた」ことに求めるよりむしろ、20世紀末に生きた藤村が、たまたま遭遇した火山灰編年学の飛躍的進歩を巧みに利用したとみたほうが妥当だろうと私は想像する。

 藤村は、1970年代後半から始まった火山灰編年学のめざましい進展にいち早く気づき、その重要性をもっともよく理解した考古学者だったのではないか。彼は、最新の火山灰カタログを手にしてしかるべき土地を訪れ、そこでもっとも効果的な「発掘」を成し遂げるのを繰り返したのではないか。彼は、どこで石器を出せば日本最古記録を更新できるかを、きわめて正確に把握していたようにみえる。十分な信頼性をもって古い年代を与えてくれる地層が日本のどこにあるかを、そのとき最先端を切り開いていた火山灰編年学者が知っていたのとほぼ同じレベルで知っていたようにみえる。

 そして彼によるめざましい「発見」は、火山灰編年学者の知的関心を前期〜中期旧石器時代(地質学の言葉でいえば中期更新世)に釘付けにした。こうして火山灰編年学にさらなる進展が導かれ、また藤村が……という正のフィードバックがそこにかかった。上にあげた水鉛谷TE5火山灰と秩父市の長尾根・小鹿坂両遺跡の関係は、それがもっとも明確に見える例である。

 旧石器時代考古学と火山灰編年学のこの蜜月時代は、結果として、一方の学術分野にはめざましい前進をもたらした。しかし他方には歴史に長く記録すべきスキャンダルを残す結果に終わった。

1980年代にすでにあった「神の手」への疑惑

 振り返れば、藤村が発見した旧石器への疑惑は、火山灰編年学者の中に1980年代にあった。宮城県岩出山町の座散乱木遺跡で藤村が1981年に旧石器を取り出した安沢下部火山灰は、火山学者の目には、火砕流の堆積物のようにみえた。火山噴火によって瞬時に形成された火砕流堆積物の内部から石器が出土したのなら、そこが当時の生活面だったとは考えられない。町田洋らは、そこからの旧石器出土の事実にたいして、「火砕流らしいテフラの性質からみると問題がある」と述べた(渡辺直経編「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」865-928ページ、1984年3月)。

 この論文は流通に限りある報告書に掲載されたに留まったが、1989年11月に早田勉がこの報告を引用しつつ、安沢下部火山灰の堆積学的特徴を詳細に記述して、吹き抜けパイプ構造の存在などからそれが火砕流の堆積物であることが確実であると、日本第四紀学会発行の学術誌に書いた(第四紀研究、28巻、269-282ページ)。ただし早田は、それに続けた考察で次のように書くに留まり、出土の事実そのものに疑問を差し挟むまでには至らなかった:「安沢火山灰下部の中の層準から遺物が出土したことが事実ならば、その遺物は火砕流の流走中に下位の層準から取り込まれたものである可能性が大きい。この場合、遺物は実際の位置より大きく移動していることが予想され、このような出土状態をそのまま考古学における生活面を示す通常の出土状態と同じように扱うことはできない。」

 安沢下部火山灰の給源火山やその年代は、1989年時点ではまだはっきりしていなかったが、現在の火山灰編年学は、この火山灰が鳴子火山からおよそ8万年前に噴出した柳沢火砕流と同一物であることをあきらかにしている。1980年代の火山学は、いまから思えば8万年前の中期旧石器出土に疑問を投げかけていたのだ.

 しかし1990年代にみられた、30万年前、50万年前と、留まるところを知らない前期旧石器発見ニュースは火山灰編年学者の目をも奪った。昨年11月のスキャンダル発覚まで、町田らの報告と早田の論文による疑問提出は火山灰編年学界からもほとんど忘れ去られていた。私を含めた火山灰編年学者たちも前期旧石器フィーバーに冒されていたのだ。同じ科学者として内心忸怩たるものがある。


この文章を引用なさるときは,下記情報をお使いください.

早川由紀夫(2001)火山灰編年学からみた前期旧石器発掘捏造事件
SCINECE of HUMANITY 34号(竹岡俊樹・小田静夫編「旧石器捏造事件の真相を語る」),35-38ページ.勉誠出版.平成13年5月