新編宇佐美総覧(1987)の「表3-1 10年ごとの被害地震数」から,100年ごとの被害地震数のグラフを作成した.畿内・鎌倉・江戸に震央および主被害がある地震は,区別した.ここでいう畿内とは,宇佐美(1987)の表現によれば,「畿内・大和・京都を意味する」.

17世紀から地震数が急激に増えるのは,強靱な中央集権国家(江戸幕府)が成立して地方の情報が中央によくもたらされるようになったことと,生産力が向上したことにより全国で人口が増加しはじめたことによるとみられる.地震数の増加は,報告数の増加すなわち人為効果によるみかけのものであって,実際に発生した地震数が増えたわけではないと考えられる.これと同様の現象は,世界の火山噴火報告をまとめたSimkin and Siebert (1994)のFig. 8にもよく表現されている.

  1. 鎌倉の被害地震が,鎌倉幕府が置かれた13世紀に集中すること,
  2. 江戸の被害地震が江戸幕府が置かれた17世紀以降にしかないこと,
  3. 17世紀以降の急激な増加は江戸とその他によるものであって,畿内と鎌倉では増加がみられないこと

以上の特徴から,この集計結果に人為的効果が反映していることが確実である.


さて,それでは9世紀の地震集中は人為効果によるみかけ現象だろうか,それとも真の地震集中が9世紀にあったのだろうか.これを考えるために,6世紀から16世紀までを拡大してみる.

この図から,9世紀の地震集中は畿内の地震数増加にその原因をもつものではないことがわかる.地方の地震が(京都に)たくさん報告されたためにピークが出現している.地方の地震数の増加は,8世紀からすでにみられ,10世紀になると激減している.この時代は,奈良・平安時代に朝廷で六国史がさかんに編集された時代によく合致する.六国史の編集は,『三代実録』の887年で途絶えた.

9世紀の地震集中が六国史が存在するためのみかけ現象であるという仮説を以下で検証してみよう.