洞爺湖と有珠山の噴火の歴史---その特徴と,まだ解明されていない不思議

洞爺湖をつくった洞爺火砕流の噴火は,海洋同位体ステージ5.4すなわち10万5000年前に起こった.北日本各地の顕著な海成段丘を覆う洞爺火山灰の層位から決められたこの年代は,±1万年以内の精度でたしからしい.伊達市中心街や洞爺村高台地区は,この洞爺火砕流堆積物がつくった台地の上にのっている.

昭和新山の北にあるドンコロ山はやや開析されたスコリア丘である. 洞爺湖に浮かぶ中島あるいは今の有珠山の位置から相次いで噴火した2枚の軽石のうち上位の(うぐいす色)軽石の30cm上に,このスコリアはある.その関係は,伊達市関内町で確かめることができる.この2枚の軽石の間にあるレスの中に銭亀女那川軽石(5万3000年前)が挟まれていることが別の場所でわかっているから,ドンコロ山スコリア丘の噴火は4万8000年前ころだったと判定できる.

今の有珠山の骨格(いわゆるソンマ)は,おそらくドンコロ山スコリア丘と同じころにできたのだろう.つまり5万年前ころだと思われる.ドンコロ山も有珠山も,玄武岩からなる.ドンコロ山はスコリア丘としてふつうの大きさだが,有珠山は大円錐火山というには小さすぎる.

噴火湾に向かって堆積面を展開している善光寺いわなだれは,2000年前に発生した.表面に多数の流れ山をもつその堆積物は,1663年の軽石のわずか13cm下にある.(弥生時代の遺跡と関係をもつことが報告されていると思うが,いま確かめることができない.)この岩なだれを発生させた山体崩壊の痕跡をいまの有珠山に認めることはむずかしい.馬蹄型凹地がなぜ残っていないのだろうか?山体崩壊が起こった理由もよくわからない.崩壊に引き続いて噴火が起こった証拠は知られていない.

1663年のプリニー式軽石は噴火マグニチュードM5.4だった.洞爺湖からの噴火としては,10万5000年前の洞爺火砕流の噴火以降,1,2を争う規模だった.この前の噴火は,ドンコロ山スコリア丘の噴火まで遡る.1663年軽石とドンコロ山スコリア丘の間のレスには,洞爺湖あるいは有珠山からの噴火堆積物がまったく挟まれていない.1663年の噴火は,4万8000年の沈黙を破った久しぶりの噴火だった.有珠(=臼)という名が示す山頂の大きな火口地形(直径1.8km)はこの噴火の結果できたと思われる.

このあと,1769年,1822年,1853年に噴火が続いた.どれも山頂からプリニー式軽石噴火を起こし,山麓に熱雲を流した.

1910年に洞爺湖に面した北山腹で噴火して,明治新山を隆起させた.1944年に東山腹で噴火して昭和新山をつくった.

二回連続で山腹噴火したが,1977年には山頂でプリニー式軽石噴火を起こした.1663年軽石は流紋岩だが,それ以降の軽石はすべてデイサイトである.

有珠山の北側には,地層を頭にのせたまま上昇した溶岩ドーム(潜在ドーム)がたくさん認められる.明治新山(四十三山よそみやま)と昭和新山もそうである(ただし昭和新山は,ドーム溶岩が一部で突き抜けて地表に顔を出している).東丸山や金比羅山などの潜在ドームは,いつ生じたのかわかっていない.

2000年3月31日に北西山腹で始まった噴火は現在継続中である.

早川由紀夫
2000.4.11