ゑれきてる連載 日本の火山 新しい火山観をめざして

第6回 伊豆大島 2004年5月

地層に書き込まれた2万3000年間の噴火史

1986年11月、予期せぬ割れ目噴火で一万人が島を脱出

 

▼日本の火山はよく眠る

 

伊豆大島の千波崎にある地層大切断面はバウムクーヘンのような縞模様が美しいため、島を一周する観光客が必ず足を止める景勝地になっています。この縞は、伊豆大島が噴火して吐き出した火山灰やスコリア(黒い軽石)からできています。噴火でつくられる火山灰やスコリアなどの粒子を総称してテフラと言います。厚いテフラは大きな噴火でつくられました。薄いテフラは小さな噴火でつくられました。

地層断面に近づいてよく観察すると、噴火でつくられたテフラとは違う粘土質の薄い地層がところどころに挟まれていることがわかります。それらは、伊豆大島が静穏だったとき、ゆっくりと地表に降り積もった土ほこりです。これをレスといいます。富士山の回で説明した関東ローム層と同じです。

千波崎の地層大切断面には、107枚の薄いレスが確認できます。最下位に露出する O95は2万3000年前のテフラですから、伊豆大島は約200年に一回の割合で大噴火して、千波崎にテフラを残してきました。数ヶ月から数年続く大噴火のあとに200年ほど続く長い静穏期が訪れるという、伊豆大島の火山としての特徴がここから読み解かれます。短い噴火と長い静穏期の繰り返しは、日本のほとんどの火山にみられる特徴です。日本の火山は、噴火している時間より静かに眠っている時間のほうがはるかに長いのです。

 

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南西から見た伊豆大島 中央に、まゆ型のカルデラをもつ火山島です。カルデラの中に三原山が成長しています。1986年11月の噴火は、15日に三原山の火口で始まりました(A)。21日夕刻、カルデラ床(B)に割れ目火口が突然開き、その1時間半後にはカルデラの外側に別の割れ目火口が開きました(C)。C火口から流れ出して元町に向かった溶岩に押されて、全住民1万人がこの島から避難しました。国土地理院の数値地図50メートルメッシュ(標高)データを用いて、カシミール3Dで作成しました。

 

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地層大切断面 過去2万3000年間の伊豆大島の噴火史がここに書き込まれています。O(オー)42などの記号番号は、噴火で降り積もったテフラの名前。

 
▼テフラで過去の噴火を読み解く
 

伊豆大島は、千波崎にテフラを残さない小噴火もしたはずです。内陸部に分け入って火口の近くまで調査したところ、最近1500年間に降り積もったテフラの間に24枚の薄いレスを数えることができました。したがって、この期間の噴火頻度は約60年に一回と計算できます。テフラは、それぞれ特徴があるため区別がつきます。あたり前のことですが、噴火の様相が毎回異なっていたのです。

火口の縁に薄く降り積もったテフラは、すぐに風で吹き払われてしまいます。地層として残るチャンスはほとんどありません。また、大量の溶岩を流すけれどもテフラはわずかしか出さない噴火もあります。テフラが地層として保存されなかったそのような噴火が過去に起こったことを、いま確かめることは困難です。地層から過去の噴火を読み取る手法には、限界があります。

しかし地層となったテフラから情報を抽出して、伊豆大島の火山としての能力を次のように評価することが可能です。伊豆大島は、千波崎に地層を残す規模の噴火(噴火マグニチュード4.0以上に相当)を約200年に一回、島のどこかに地層を残す規模の噴火(噴火マグニチュード2.0以上に相当)を約60年に一回する火山だ。

 地層中のテフラは、ひとが文字をまだ持っていなかった遠い過去の噴火を研究するときに、最も重要な材料となります。唯一の材料だと言ってよいかもしれません。

 

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最近1500年間に降り積もったテフラ。テフラとテフラの間には、静穏期を示すレスが挟まっています。Y4.015世紀のテフラ。右図は、各地点でのY4.0の厚さ(センチメートル)と等厚線。これから計算される噴火マグニチュードは4.4です。南部にある太い実線は、Y4.0噴火のときにカルデラの外側に開いた割れ目の位置を示します。

写真に貼り付けてあるラベルY4.4は誤り。N4.4が正しい。

 

▼階段ダイアグラムによる長期予測

 

 テフラの厚さから、その噴火で(テフラとして)噴出したマグマの量がわかります。またレスの厚さから、噴火と噴火の間に経過した時間がわかります。こうして得られた時間を横軸にとり、マグマの量を縦軸にとると、階段状のグラフ(階段ダイアグラム)を描くことができます。高いステップは大規模噴火を意味します。広い踊り場は静穏期が長く続いたことを意味します。

階段ダイアグラムは噴火の繰り返し間隔や平均規模など過去の事実を表現しているだけでなく、遠い過去から続く時間の流れの中で現在がどんな位置にあるかも表現しています。だから階段ダイアグラムには、未来を予測する力が備わっています。噴火が終わった直後は、次の噴火までかかる時間の目安を知ることができます。長く静穏が続いているときは、次の噴火で期待される噴出量の目安を知ることができます。
ただし火山は気まぐれです。いつもリズミカルな階段を描くわけではありません。実際、1986年11月の伊豆大島の噴火では、階段ダイアグラムから予想された噴出量には到底及ばないわずかな量のテフラしか出ませんでした。階段ダイアグラムは未来を確定的に予測するものではありません。

 

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過去2000年間に伊豆大島から噴出したテフラの階段ダイアグラム(溶岩は含みません)。

横軸を「西暦(年)」に読み替えると、ラベルは左から、0500100015002000

 

▼テレビで実況中継された全島避難

 

 1986年11月15日夕刻、伊豆大島三原山の火口南壁からマグマが噴き出しました。それは300メートルの高さまで上がり、1700メートル離れたカルデラ縁の御神火茶屋に集まった大勢の観光客を喜ばせました。12年ぶりの噴火は、低迷していた伊豆大島観光の起爆剤になるかと思われました。

 しかし6日後の21日16時15分、カルデラの床が突然割れてそこから火のカーテンが立ち上がり、噴煙がみるみる上昇して、1時間後には16キロに達しました。17時47分にはカルデラの外側にも割れ目火口が開き、そこから溶岩が流れ出して、大島最大の街、元町をめざしました。

 夕暮れとともに迫ったこの危険の中、全住民を島から脱出させる決定が下されました。島から船で脱出した1万人の住民は、翌朝までに全員が東京と伊豆半島に上陸しました。

 在京テレビ全局は割れ目噴火の開始直後から特別報道体制をとって、翌朝まで放送を続けました。火山の噴火と住民の避難行動が生映像でお茶の間に届けられたのは、この噴火が初めてでした。

 

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19861121日の噴煙は最盛期に高さ16kmに達しました。(野島崎航路標識事務所撮影)

 

▼避難と帰島を決断したのは行政

 

 全住民の島外避難を決めたのは植村秀正・大島町長でした。翌朝の新聞紙面には避難命令の語が踊りましたが、災害対策基本法に基づいて避難指示や命令を出した意識は町長になかったようです。町長が、法律によらずに避難を呼びかけ、それに応えて東海汽船が脱出船を手配し、政府も艦船を手当てした、というのが真相のようです。

夜の元町桟橋に迫る真っ赤な溶岩の恐怖は、頻発した震度5の地震と相まって、住民を島からの脱出行動に駆り立てるのに十分だったようです。彼らは取るものもとりあえず桟橋に集まって、老人と子どもをいたわりつつ、粛々と船に乗って避難を完了しました。いったん伊豆半島に上陸した住民もバスですみやかに東京に移動して、体育館での集団避難生活を始めました。

島に帰りたいという声は、避難生活の開始と同時に住民から上がりました。24日に都内で開かれた町議会の全員協議会で、多数の町議が町長に早期帰島を迫りましたが、町長は慎重な姿勢を崩しませんでした。その日の夜、火山噴火予知連絡会が、島の危険はまだ継続していてこれから最悪の事態が生じる恐れもあると書いた統一見解を発表しました。帰島はまだまだ遠い先にあるかのようにみえました。

ところが28日、現地を視察した鈴木俊一・東京都知事が大島町役場で記者会見して「(この静けさは)嵐の前の静けさではない」と断定しました。これは明らかな学術判断です。火山学者ではない都知事がすべきことではありません。しかし、連絡会の判断と大きく異なるこの安全宣言を都知事が口に出したことによって、帰島への動きが目に見えて加速しました。

当時の連絡会は行政判断をしない姿勢を強く打ち出していました。火山の状況を把握した上で近い将来を予測する学術判断までが連絡会の役割であり、住民の避難やその解除にはいっさい関与しないと明言していました。

都知事独自の学術判断が出た28日にも連絡会が開かれました。行政官庁から出席していた委員がそこで強い意見を述べたといいます。その結果、「なお一時的な帰島がある場合には、」の句が統一見解に盛り込まれました。かたくなだった連絡会が行政判断に足を踏み込んだ瞬間でした。

 早期帰島は実現しました。123日から一時帰島を実施したあと、1220日から22日までの三日間で全住民が島に戻りました。窮屈な避難生活は1ヶ月で終わったのです。

 

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三原山の北斜面を流れ下った1986年11月の溶岩。

 

▼見解を無理に統一する必要はない

 

11月24日の統一見解はこう締めくくられています。「爆発角礫(かくれき)岩の降下と岩なだれの発生により島内広域に危険が及ぶことが考えられる。」

 これは1400年前にあったS2と呼ばれる噴火の再来を述べたものです。山頂部にあるカルデラはこの噴火でできました。全島を壊滅させる破局的噴火が起こる可能性があると書いたこの統一見解は、社会から重く受け止められました。しかし、そのようなことは起こりませんでした。

 連絡会の席上では、S2の再来だけでなく複数の可能性が示されたそうです。その中には、このままもう何も起こらないとする見方も含まれていたそうです。実際には、ほぼそのようになりました。

 火山の噴火は毎回異なりますから、それをひとつのシナリオだけで予想するのは無謀です。複数のシナリオを列挙して、それぞれに確率を付すのがよいと思われます。あるいは、委員ひとり一人の意見を表にして示してもよいでしょう。複数のエコノミストによる経済見通し一覧表や、最高裁判所の判決における裁判官ごとの意見一覧など、この方式での情報提供が実現している分野もあります。

 社会は公の見解を求めますから、噴火の重要局面で連絡会が何らかのコメントを出すことは必要でしょう。しかし十分成熟した現代社会は、連絡会内部で無理に統一した見解を欲しているわけではないように思われます。